ことばには興味があるものの全くの素人で、以下は常識の範囲内での私見に過ぎないが、日本語はいま3回目の大変革中の渦中にあるように思えてならない。

1回目は6世紀頃の隋・唐からの漢字の習得時期で、漢字は本来表音・表意文字なのに、まずは万葉かなに見られる通りヤマトと言葉の発音記号として用いられ、それが日本独自の表音文字「ひらがな」や「カタカナ」に発展した。同時に漢字本来の中国での表意記号の使い方に、日本流の読み方の「漢音読み」や「呉音読み」と日本読み(例:正義・正月・正しい)が加わり、その時期に急速に日本語の語彙が増え表現方法が多様化したように思われる。

⒉回目の変革は明治になっての言文一致だろう。それまでの候文的なものから話ことばで書くことになったのは大きな変革だったろう。それも口語体と文語体があるのだから面倒だ。これも過去100年強の間に起こった。

3回目の変革は、これこそ全くの私見だが、この50年ほどの期間だと思う。その間に日本語としての英語の仮名書き単語が急増した。会社の部課名には日本語のみだったのだがカタカナ名が出現したのは1960年以降で、いまでは会社名も英語のままも茶飯事だ。その正反対に異国の単語を一切拒否し必要ならばそれを自国の単語語彙で置き換える(例えば飛行機なら「空飛ぶからくり」の類)のは実際に訪問して聞きWEBでも確かめたアイスランドだ。彼の国のことばは中世から全く変化していないと言う。

また、新聞では文意伝達の効率性から敬語は文末の動詞のみとなり、それも省かれつつある。いまの新聞では「天皇陛下は東北地方に出かけた」となるが戦中までは「畏れ多くも今上天皇陛下におかせられては東北地方に行幸あらせられた」と書かれただろう。これだと確かに長さ辺りの情報量は半減する。50年でもう「おそれ多く」などは死語に近くなった。最近までは文章途中の敬語は省きそれでも文末は「されている」の類で終わっていたのだが、最近はそれも「した」になる場合がある。その意味ではTVのニュースの方がまだ忠実にそのルールだけは守っているようだがそれでも若干の違和感はある。

それほど極端ではないが、昨年入院したおりの看護師さん達の話しかけ方は大別して二種類と感じた。一つは努めて年長者への配慮として敬語らしく「気分はどうですか」と言う人、もう一つは他人行儀でなく親しみを込めようと「気分はどう?大丈夫?」と敢えて友人らしく言うタイプ(タイプも英語からの語彙!)だ。どちらも私の気持ちを案じての言葉で、後者は気取らずにと言った気持ちが滲む。私はどちらへも「有り難うございます」とお世話になっている人への敬語が自然に出てくる。日本語では男女・老若の差があり敬語に加えて卑下語があった。数十年前までは「父が行った」と言ったものだが、いまでは「お父さんが行かれました」とTVで観て異様に思う。

これらのことは日頃あまり気付かないが、それは自分がその渦中にあるからだろうか。