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1958~1960年のフルブライト留学雑感

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so-netのブログで書いたものを編集しなおしました 

1958~1960年のフルブライト留学雑感

 

 目       次

 

1 まえがき2

2 留学志望の動機とその準備.. 2

2.1 留学志望の動機.. 2

2.2 留学試験の準備2

3   英語の速読法3

4 英語での口頭試問.. 4

5 結膜炎と「この天の虹」5

6 氷川丸で太平洋横断6

7 「東西各国一見一筆」(1)7

8 アメリカ大陸の鉄道横断8

9 「東西各国一見一筆」(2)9

10 英語発音の苦労と失敗談(1).. 11

11 アラビア数字の由来と漢字のはなし12

12 英語の学び方12

13 Due Dateのはなし13

14 「蛙」と「システム思考とコンピュータ」のはなし14

15 英語発音の苦労と失敗談(2).. 15

16 日系一世の人と正月料理16

17 日米の社会常識の違い(半世紀以上前の婚姻届の顛末).. 17

18 「米食」と「肉食」考18

19 海外での和食の今昔.. 19

20 「メイドインジャパン」のイメージ20

21 レイディズ ファースト.. 21

22 日系一世の人たちと望郷の念22

23 クリーブランド(オハイオ州)の冬23

24 「米国政府全額支給フルブライト留学体験とその後の人生」 井上 義祐24

25 留学後55年を振り返って25

 

 

 

 

1 まえがき 

私は1958年のフルブライト全額支給留学生、翌年は会社からの留学生としてClevelandのCase工大大学院で当時最新のシステム工学とコンピュータ利用を学び1960年に帰国した。以降30年近く続いた日本経済の急成長期に、学んだことを「産業の米」と言われた日本鉄鋼業で実用化する機会に恵まれた。その後早期退職し勤務した大学では、学生の育成とともに、「日本鉄鋼業の情報システム」に関する論文や著書の記述に集中できた。それらは日米の経済的格差もなく留学が容易ないまでは想像できない貴重な留学の賜物だった。

留学当時の日本は敗戦の廃墟からの復興途上にあり、1ドルが360円ながらそれも外貨不足で交換できず、初任給は1万数千円で一般給与水準はアメリカの1/10程度、渡航費だけでも片道で年収以上の20万円弱を要し、米国での高価な授業料や生活費も考えると私費留学は全く不可能な状況だった。そのなかで日本からの年間30数名のフルブライト全額(渡航費・授業料・生活費)支給は憧れの的でその試験に合格した喜びは大きかった。当時の同年代海外生活経験者は数少なく、その記録の意味も含め、時空を超えて私のみ自在にアクセス可能な経験の記憶を思いついた時に書き残していた。それは大学の90分授業の中間での眠気覚ましにした雑談に端を発するが、いまでは時折の感想をブログに記述し知らぬ間にそれが百数十編になる。そのなかには留学関連で当時の社内報からの依頼投稿記事や、その後人生の節目で書いたものがあり、一緒に氷川丸で留学した小田実君の至言「指定の大学院で一学年を過ごすこと以外には何の条件・義務も課せず勉学をさせてくれた」フルブライト委員会への感謝の意も込めてそれ等を収録する。

 

 留学志望の動機とその準備

 

2.1 留学志望の動機 

 大学に入学した1952年は、先進の米国でも最初の商用コンピュータ IBM701 が発表され翌年米国原子力委員会に納入された頃で、日本ではまだ工学部門のアナログコンピュータが使用されたくらいであり,実用のデジタルコンピュータの存在など知る由もなかった。早稲田の機械科3年生のとき,最も目新しい分野の一つの自動制御研究の高橋ゼミを希望した。当時の日本での自動制御野分野では、学部には講義がなく大学院で東大・早稲田・東工大の先生がその研究室でアメリカの専門書輪読会がなされていて院生に混じり私もその末席に加わった。その頃、サイバネティクスの創始者として著名なウイーナー博士が来日されその講演を聴いてアメリカ留学志望を強くした。大学4年時に受けようとしたフルブライトの受験資格が実務経験1年以上と変更となり、翌年に八幡製鐵に入社した。入社後実務経験を経るにつれ,また,姉のロックフェラー財団支給による留学にも刺激されて,当時はアメリカでしか受講できなかった自動制御理論研究のための留学の念が一層強くなり勤務の傍ら受験の準備に取り組んだ。

 

2.2 留学試験の準備

私の大学後半と入社後2年の合計4年間は、フルブライト全額支給留学生試験のための英語学習に集中していた。入社後勤務した当時の北九州には英会話学校はなく、テープレコーダーなどは勿論存在しなかった。唯一可能な英語のヒアリングは,毎時きっかりの FEN(在日米軍極東放送)10分間のニュースを、朝7時から夜中12時まで、昼会社にいる間を除き毎日8回は聴くことで、また英語の Reader’s Digest など雑誌を通読した。もし受かれば,最短1年は休職が必要となり就業規則で受験可否を受験前に伺う必要があることを知り、高い競争率で通る確率は極めて低く大いに迷ったが,思い切って届けを出し許可を得て受験した。1年目は補欠にはなったが結局行けなかった。2年目には英語の速読や単語力増強の本を留学中の姉から送ってもらい、毎日勤務後に特訓した甲斐あって九州・中国・四国地区から3人のなかに幸運に恵まれ留学できた。留学先は選べたので,自動制御の実践面で研究実績の多い Eckman 教授がおられた,オハイオ州クリーブランドのケース工大・大学院へ決めた。

 

3 英語の速読法 

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-04 を一部加筆修正

 

学生時代に小説を多読し和文は速読できていた。英文は辞書を頼りに意味が取れる程度で、読解力が「一定時間内に理解できる文章量だとは、「合格後すぐに米国大学院の授業に適応可能な人を選ぶ」ための留学生試験を受けるまでは認識がなかった。入社後半年後に受けた試験では補欠ながら不合格で、翌年度に一次試験からもう一度受け直す羽目になった。補欠で終わった主原因は後述の通り面接試験だったと思うが、その他に長文を読みその内容に関する設問 20 の各5個ある短文回答から一つの正解を選ぶ問題で、解答欄の半分にも届かず時間切れになったことが大きかったと思えた。そこで、入社後2年目は試験がある秋までの数ヶ月間で速読力を養うのに何か効率良い方法があるはずだとロックフェラー財団資金で留学中の姉に訊ねたら、大学の新入生のための速読法と語彙増強法の二冊のテキストが送ってきた。

速読法の本は最初にテストがあり、「問題文を読み10問の各設問に5個の解答文から一つ正解を選ぶ。正解が80%以上であれば採点対象となり要した時間を計れ」とあり、留学試験と同じタイプだった。次頁の表で、要した時間の一分当たりの単語数(word数、1wordが5英字相当)とその対応年齢表があった。それを試すと、昔の事で数字は若干怪しいが、私は120語/分弱の小学6年生並みで、300が高校生、400が大学生、600で管理職相応だったように記憶する。次頁には110語/分以下の人は音読を止めること、それ以上を望めば速読の理屈を納得し以降の頁で訓練を要するとあった。

その理屈の要約は、「眼球が動いている間はものが視えない。それは、電車に座り前に立っている人の眼球を見ると左右に往復していることでもわかる。読書速度は一行読むのに何回眼球を止めるかで決まる。150語/分前後の人は一行読むのに単語の数だけ眼が止まり、400語/分の人は一行を2回ほど止めるだけで文意を理解する。つまり「読書速度は、at a glance (一瞥)で同時にイメージ化できる単語数による」というものだった。それは和文でも同じはずだが、漢字は象形文字なので見た瞬間に意味が採れるが、英語は表音文字であり意味のイメージは湧かないものだとの思い込みが間違っていただけだったのだ。

以降の頁はその練習であった。縦8mmで、横が2.5cm、3cm、5cmほどの四角い3種類の小窓を切り抜いた付録の白紙部分で、羅列された4桁ずつの数字を隠し、紙をサッと上下に動かし狭い子窓で一瞬それを眺めて、数値でなく一連の数字配列としてイメージする練習を繰り返す。次に、5桁で同じ練習をする。退社後に毎日練習して8桁まで可能になった。次は配列が数字でなく4字からなる単語(例えばbook)をサッと子窓から一瞬眺めて意味を思い浮かべる練習となる。次第に一語の字数が増え8字の単語になるまで毎日繰り返す。その結果、不思議なことに漢字と同様に一瞬で意味が(知っている単語ならだが)取れるようになった。次には、一番広い窓で一行に2~3個の任意長さの単語群を一瞬だけ眺めて意味を思い浮かべる練習をする。このように3ヶ月間毎日20分弱これを続けたら、最初に試したテストで倍速の300語/分となったのには驚いた。ただし、当然のことながら、その単語の意味が不明では語を構成する英字のイメージは浮かんでも語としての意味のイメージは湧かない。

そこで、途中から2冊目の語彙増強法の本に取り組むこととなる。これも最初に日常生活では使用されず新聞や高級雑誌のみに出てくる100の単語がリストされ速読の本と同じく相応年齢一覧表が付いている。私は18単語しかわからず中学生なみの実力だった。語彙を増やす方法は、語源(ラテン語・ギリシャ語が多い)にさかのぼる理解をする、漢字でいえば偏や旁やから想像する類で、これも3ヶ月近く20分くらいの訓練で100単語のうち80近くの大学高学年並みになったほど短期間に効率良く覚えられた。

こうして迎えたその秋の2回目の試験では、まわりの受験者が昨年の私と同様半分くらい答えたところで時間が終わったが、私は何とか最後の回答までたどり着けて一次試験に合格できた。二次の口頭試問は前年度の失敗への対策を考え、次に述べる準備をして二度目の試験に臨んだ。

 

4 英語での口頭試問

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-15-2  を一部加筆修正

 

このような経緯を経て何とか受験2回目で一次試験に合格できたが、口頭試問の難関が待ち受けていた。受験票の表が日本語、裏が英語で、受験の目的などを記入する欄は前年と一緒だった。前年の補欠だった受験では大きな失敗をしていた。それは、自分は工学士なので当然ながら受験票に英語で “Engineer”と書いた。日本語でもそう書けば良かったが馬鹿正直に私の社内での職分名の「技術員一級」と書いておいた。アメリカ人の試験官の一人が英語で「君はエンジニアと言っているが本当は “Technician” なのではないか」としつこく訊く。「いや、正真正銘のエンジニアだ」と何回か言い返していると「英語ではそう書いているが日本語では”技術員”すなわち英語の “Technician” と記述されている」と言う。漢字が読めるとは思っていなかったので、それで彼の頑固に言い続ける理由に気付き「それは社内制度上での言葉で—-」と下手な英語で説明している間に時間切れとなった。そのせいか、補欠にはなれたが米国には行けず翌年はまた一次試験から受け直す羽目となり、二回目の一次試験の対策として速読法で何とか通ったことは前の3で書いた通りだ。

前年の失敗で二次試験の要領はほぼわかったので、二年目の受験ではその対策を練った。勤務地の八幡市近辺では英会話の学校もなく、ヒアリングは米軍人向け一日8~10回のevery hour on the hour のニュースを聴いて練習できたが、話す機会は皆無に近く発音と hearing ともに全く自信がなかった。そこで、前年の経験から20分強の口頭試問の初めにまず面接員が切る口火を考えると「留学の目的は」、「留学して帰国後は学んだことをどう活かすか」、「大学で行きたいところがあるか、それは何故か」、「いまどんな仕事をしているか」等々とおよそ想像できるし、少し違ってもそれらに話題が誘導できる質問を考え、それぞれの場合に対する簡単な答えとそれに “Because —-” から始まるつなぎを英作文しすらすらと言えるように練習した。続いて、面接員が細切れに訊きたいと思うであろう内容のすべてを含みそれを20分の間一気に話すことで、①面接員の矢継ぎ早な質問を封じ、英会話力が端的にわかる対話形式が避けられる、②短時間に自分の思いの全部が述べられる、③事前に充分準備できる、と戦略を立てた。その内容は下記のようなことだった。

「これからの社会では “automation” が重要になると確信する。しかし残念ながら日本の大学ではまだその講義はない。私が調べた限りでも米国ではMITをはじめ著名な工科大学や主要大学の工学部では学部はもちろん大学院では関連の講義が幾つもある。理論ではなく実用面の研究内容ではどこが私の今後の活動に有効かを調べた結果、産業プロセスでの自動制御の分野で著書があり多くの論文もあるProf. Donald Eckman が在籍されるCleveland Ohio の Case Institute of Technology 大学院に是非行きたい。また、帰国後もいま自動制御エンジニアとして現在勤務している八幡製鐵に戻って学んだことを役立てたい。Cleveland は Pittsburgh に次いで鉄の街として有名で Jones and Laughlin など製鉄所があり是非そのような工場も訪ねたい—–。」このような概要を英語で20分間、途絶えることなく一気に言えるように必死に暗唱し準備した。

二次試験は福岡の米国領事館で、米国人3人と日本人が面接員だったと記憶する。昨年にやり合ったその一人が予想通り英語で「どこで何を学ぼうとしているか」と訊いてきた。そこで待っていましたと “I want to study Automatic Control at the Graduate School of Case Institute of Technology in Cleveland Ohio , because —–” と上記の暗記文章を話し始めた。途中で何度か質問の気配を感じたが、その隙も与え ず broken な発音ながら一方的に終わりまでしゃべりまくった。終わり頃は面接の人たちも私の作戦を見破ったかのように笑みを浮かべながら聞いていたが、終わりまで中断させることなく「君の希望は良くわかった」と言ってくれた。私も意図が見透かされたかと、はにかみながら “thank you for your patience —” と言って試験会場を後にした。結果は、多くの幸運に恵まれて、思い立って準備を始めてから4年目にして米国政府からの全額支給の留学試験に何とか合格することができた。ただ嬉しかった。

 

5 結膜炎と「この天の虹」

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-05-17 を一部修正加筆

 

最近検診のため眼科へ行き、以前に慢性の結膜炎と言われ通院していたことを思い出した。それは八幡製鐵所で社会人としてスタートした昭和31年(1956年)頃のことだ。

半年間の研修を経て,自家火力発電所,製鋼,分塊圧延など諸工場がある同所の西八幡地区の計測器と自動制御装置を20人余りで調整保守担当する責任者となった。所内は良く整理されていたが粉塵が多く空気は汚れていた。戦後の復興が始まった時期で産業の米と言われた鉄鋼の需要も多く、所内各工場の煙突からモクモクと出る煙も好況の象徴と感じられる雰囲気もあった。街から見ると、蒸気の白・石炭の黒の白黒に、平炉工場での酸素吹き込みで出るアカネ色の煙が天然色(当時のことば)を加えていた。会社も苦慮していたが、雨の日には白地の洗濯物の取り込みを忘れると、所々黒くなるほどだった。勤務し始めてすぐにその環境には慣れたが、ただ眼だけは充血して痛痒く、一日に何回か水道水で洗眼するようになっていた。

日々の業務には、上記に加え、その地区内に建設中だった新厚板工場で担当分野の計測・制御器機部分の工事進捗管理と操業開始準備が加わった。工場はでは各箇所に新技術が多く取り入れられ、入社早々未知のことばかりで苦労も多かったが、操業後では決してできない貴重な体験ができた。

ところで、その工場は急速に成長しつつあった造船業からの要望に応え、広幅の厚板を圧延できる世界最新鋭の設備を誇った。工場横の事務所一郭に私の机があり、机上での業務を済ませては、そこを拠点に厚板工場も含め3km 四方くらいある担当地区3カ所に駐在の人たちと、器機や装置の整備に出回っていた。当時は冷房など思いもよらず、課長室に1台あるきりの扇風機すら羨ましく思えたほどだ。掛長以下の担当者は事務所の窓を開け放して風を通し、それでも暑いときは団扇をパタパタさせながら仕事をしていた。工場とその事務室内は新しく綺麗なのだが、窓のすぐ前にはうずたかく山積みされた臨時の石炭置き場があった。夏には涼しいように全部開け広げた窓を通してその石炭の塵埃が舞い込んでくる。ノートを開けて現場を2時間も廻って戻ると、紙面にそれが降り積もり指でなぞると字が書けるほどで、眼の充血はますますひどくなっていた。

その頃フルブライト留学試験の一次試験に合格し身体検査を受け、いまでは不思議に思われようが、結核と眼の診察もあった。今回検診して貰った眼科医にそのことを訊ねたら、以前は検疫でも結核とかの伝染病には神経質で、結膜炎もトラコーマなどの疑いもあり厳しくかったようだ。検査では結膜炎が引っかかり要治療と診断された。早速眼科で診て貰ったら、結膜炎が慢性化しこの状態では身体検査に不合格の怖れもあるとのこと。それから眼科通いを始め、毎日洗眼と目薬の点眼を続けた。その甲斐あってか、何とか身体検査はパスできた。しかし充血は慢性化した症状で、医者の「慢性なので全治は無理だ」との意見もあり半ば全治を諦めながらも通院は続けていた。

ところが留学が実現し氷川丸に乗って一週間もしないうちに、なんと点眼や洗眼も忘れるほど眼の痒さも充血がすっかりなくなっていた。3週間の乗船、シアトルに着く頃には、あれほど通院治療しても治らなかった慢性結膜炎はすっかり消えてなくなっていた。生活環境の激変で、太平洋という海原の綺麗な空気のお陰だったのだろう。

ちょうどその出発の頃、八幡の本事務所や現場で映画のロケが始まっていると聞いた。その後の友人の手紙で、その映画の題名が「この天の虹」であり、当時話題になり始めた海外での技術協力も絡めたロマンスものだったらしく、結構評判になったいることを知った。環境が今ほど問題視されず、当時のアカネ色の煙を交えた天然色の煙を、ロマンティックな「虹」に例えてもそれほどの違和感がかったのだろう。その映画は是非見たいと思っていたが、上映された頃には日本にいなかったし、帰国後もその機会を逸してしまった。

その後1980年から2年間君津製鐵所に勤務した。その頃までには環境対策が強化され、粉塵問題では一番過酷であった高炉工場でさえも、発生源対策や設備内の空気浄化対策などにより白シャツで工場へ行って汚れないほど綺麗になった。所内には植林した樹が茂り、市内でも煙突からの煙も目立たなくなって、結膜炎など忘却してしまっていた。

眼科での検診で、永い間すっかり忘れていたこの一連のことが思い出された次第だ。

 

6 氷川丸で太平洋横断

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-21-2 を一部加筆修正

 

米国政府全額支給留学生の我々28名は1963年7月3日に氷川丸で横浜港からアメリカに向かって出港した。映画のシーンで良く見るような銅鑼が鳴り響き桟橋との紙テープが切れた時には、留学実現の第一歩が始まったと感動で胸が一杯だった。

その前年度までは2等船客であったが、フルブライトの予算が少し減り人数を絞るか3等にするかの選択で後者に決まり、そのお陰で私も行けるようになったのかも知れない。我々の船室はそのような次第でデッキ(甲板)の直下の階にある二段ベッドの部屋だったが、それでもホテルに泊まるなど縁遠かった当時としては快適な部屋だった。最初の数日はすべてが珍しくデッキまで上って大海原の景色に見入っていた。氷川丸は静かな海原の波を切って進み、その周りはぐるっと海原が広がり一日中海以外に船一隻も見えない日があった。そのようなときには、たとえ遠方にでも船の煙が見えると一大事件だ。その情報がたちまち船内で放送され、多くの人がデッキに出て来て「どれどれ、どこだ」などとその船が遙か遠くの地平線ならぬ海平線に消え入るまで見ていた。

東向きの航路なので、一日が30分単位で短くなる日ができ、船内の放送とニュースで周知される。船内はアルコール類も免税で、日本では高価で高嶺の花だった洋酒を楽しんでいた仲間は飲む時間が短くなるといって残念がっていた。そのかわり日付変更線を跨ぐ日は同じ日付が二日続くのも初めての経験で面白かった。

その通過当日,船内放送で「ただいま日付変更線の上を通りつつあります。ご覧になりたい方は直ぐデッキに出て下さい」とアナウンスされると、途端に近くの階段で大勢が駆け上がるドタドタという音がする。一瞬私もその気になりかけたがそんなはずはないと気づいてゆっくり階段を昇って様子をみると、「ン?」「そうか。見えるはずはないナ」と引っかかった人が結構いたので面白かった。だまされるほど皆は退屈していたのだろう。また、その翌日の夕食時に、アメリカ人宣教師の小さい子が、「私は大勢の人に二日続けてハッピバースデイの歌とケーキで祝って貰ったのに歳は一つ増えただけなのよ」と喜んでいるのが可愛かった。そのような我々を乗せ氷川丸はエンジンの音を響かせながらひたすらハワイ目指して東進して行く。

次に述べるように海が荒れた日もあったが、シアトルに着くまで三週間近くもほとんど毎日のようにデッキで360度グルッと海原を見渡していると、地球はとてつもなく大きな球体であり、太平洋とは名前の通り普段は静かな大洋なのだとつくづく実感させられた。 しかし、いつも太平ではないことを次で述べる様に思い知らされる。

航海が何日か経ったある日、エンジンルームなど船内の見学の後で船長から航海について話を聞いた。50年近く昔の事なので多少の記憶違いもあろうが大筋は次のようだった。「これまでは静かな海だったが、嵐になると高い波に遭遇する。船の揺れ方にピッチング(縦揺れ)とローリング(横の回転揺れ)の二つがある。太平洋で嵐に遭うと波の高さはマストくらいもあり、波の間隔も船の長さくらいもある。船が波と直角になると船の前と後ろが波で支えられることとなり折れる心配があるのでそれは避けたいが、船が波に並行になると横転する恐れがある。そこで波の大きさを見ながら波の方向へある角度を保つように操船する。その結果、船はピッチングとローリングの組み合わさった揺れとなる。」

その話を聞いた後しばらくして、氷川丸は暴風圏内に入るという船内放送があった。私はもともと船酔いには強かったが、すこし揺れ始めたときに船尾に行き「いまから上がるぞ、右に傾きながら降りるぞ」とあたかも自分が自分の身体も含めた船全体を動かしているような自己暗示をかけた。それが功を奏したのかは不明だが、揺れが大きくなってもブランコに乗っているようで船酔いはしなかった。外を見るとなるほど船長の言ったとおり波間では船が深い大きな谷底に取り残されているようで怖かった。揺れ始めると同室の人など多くが船酔いで苦しそうになった。

その後の最初に行った食堂では食べに来た人は半数くらいだった。その時に初めて気づいたが椅子の下に鎖があり床と繫いてあり椅子が机から離れて行かないようになっていた。次の食事では来ている人数は四分の一くらいとなり、テーブルクロスに水が撒かれてお皿が滑らないようになっていた。その次の食事では今度は何の仕掛けがあるかと半ば楽しみながら行くと、人はまばらでテーブルの縁をビリヤードのように囲む枠が上げられネジで締め固定されて、お皿が滑り落ちないように工夫されていた。その次の食事には、まさによろめきながら行くと、今度はボーイさんが直接にお皿を手渡ししてくれ、皿の上のものをこぼさずに揺れに合わせて傾けながら食べるのは大変だった。そこまで経験したのは数人しかいなかった。その次の時はさすがの台風も過ぎて元通りの食堂風景に戻り食べる人も毎回次第に増えた。同僚はその間吐くものもなくなるくらいの思いをしたらしく、何年経ってもその時の話をするときは苦しげだった。

 

7 「東西各国一見一筆」(1)

-八幡製鐵所旬刊誌『くろがね』266号(昭和33年11月25日) 計量管理課 井上 義祐

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17-1    転載一部加筆修正

 

十月も半ばを過ぎ、当地クリーブランド(オハイオ州)は街路樹の葉も落ち始め、またエリー湖の水も寒々とした色となり秋の気配を感じさせます。もう一ヶ月もすると寒い冬がやってくるそうです。八幡からそして日本から遠く離れての生活で、日本のニュースもほとんど分からない状態ですが、時折航空便で送ってくる「くろがね」に会社の様子を知らされ、大変嬉しく、またなつかしく読ませていただいています。

私も七月の三日に日本から二十九名の留学生の一員として横浜港を出港してまだ三月余りにしかなりませんが、なんだか何年もたったと思うほど、いろんな楽しく珍しい、経験をいたしました。以下思いつくままに少しずつ書いてみましょう。

船では来る日も来る日も見えるのは大海原ばかりで、地球って本当に大きいものだと改めて感じ、また日付の変更で七月九日が二日続いて、隣室の子供の誕生祝いを二日させられたりしました。毎晩時計を三十分ずつ進めるので朝が大変に眠たかったことを思い出します。

ハワイの近くで海の色が一変して、美しいエメラルド色となったのには大変感激しました。ハワイに着く頃までにはデッキで日焼けして真っ黒になってしまいました。ホノルルではちょうど二十四時間停泊しましたので、大枚5ドルを出して(各人の手持ちがわずか30ドルだったので大変なわけです)遊覧バスに乗りました。 ところがバスのガイドがなんと男性でドラ声の英語でペラペラやるのにはがっかりしました。(でも後でわかったのですが、運転手の他にガイドがいるのはいい方で、バンクーバーでは、運転手がガイド兼務なのです)その点日本はうるわしいガイドがいていいなと改めて感じました。

ワイキキの浜で泳いできましたが、聞きしにまさる美しい海でした。売店で水着を借りられるのですが、店番の女の子に「ウエストのサイズは何インチですか」と聞かれ(女の子ではあるまいし)知る由もなく、でたらめに32インチなどと言って借りたのはよかったが、水に入ってしまってから大きすぎて二、三かきごとにパンツを引っ張りあげねばならぬ有様になった友人もいました。 浜のちかくにワイキキサンドと称する店があり、1ドルで好きなものを食べ放題と書いていたので、泳いで十分に腹のへったところでその店にかけこみ、ここの名物パイナップルを皆で大いに食べました。後でパイナップルの酸のために舌が痛くなるとはつゆ知らず。

ハワイの店では英語の使い始めとばかり張り切って出かけたのですが、店員の方から日本語で話し掛けられてがっかり……という光景も見られました。でも挨拶とかが通じたと言っては自信をつけていました。前々から聞いてはいましたが、おつりをもらう時には品物の値段におつりのお金を足しながら元の金額になるまでつりを出すのは奇異に感じました。ハワイでの一日もつつがなく終わって再びカナダ領バンクーバーへと出航。今度は日一日と肌寒く感じながらの航海でした。大陸棚へ入るとまた海の色が変わり、それから数時間の後に十八日間も船上で待ちに待った大陸を見たわけで、一寸した感動でした。 「大陸見ゆ」と電報した人もいたぐらいです。翌二十日ライオンゲートブリッジの下をくぐって美しいバンクーバー港へ入りました。日本でいえば北海道より北になるのですが、割に暖かく(もっとも真夏ですが)きれいな港でした。

港で会った人が第一次大戦の時フランスで日本人と一緒に戦ったとか。その人と食事を共にし、また家族の人と一緒にスタンレーパーク、エリザベスパークなどに伴われドライブできたのは大変嬉しくなつかしい思い出となりました。外国で親切にしてもらうということは、何よりも嬉しいことで、私達も日本の外人には親切にしようと話し合ったことでした。外国ではじめて自分の英語を実用したわけですが、どうにかこうにか通じたようで、それもまた嬉しいことの一つでした。今でこそ何とも思いませんが、あんなに白人をたくさん見たのは初めてで、何だか変な気持ちでした。

二十一日夕刻やっと目的地シアトルに向けバンクーバーを発ちました。その夕方に一寸した事件が起こり、最後の晩を賑わせました。出港直後に外国の貨物船が隣接して出港しているので、皆喜んで手を振っていると見る見るうちに接近しあれよあれよと言う間に衝突してしまったのです。船が大きく傾いて真っ青になった人もいましたしまた。入港すると電報代が高くなるというので前もって「無事入港」なんて電報を頼んだ人などは「大変なことになったなァー、もう電報は着いているだろうに。無事どころか船が沈んじゃって」などと考えた人もいたようです。しかし留学生の中で新聞社に勤めている人は、さすが商売、チャンスと写真を、四、五枚撮っていたというのには・・・。幸い私のいた部屋と隣室がへこんだ程度で、ぶっつかった相手の船も大したことがなくて済みました。その晩は一同で送別会をしました。三十五歳を年長とし平均二十八才くらい。大学の助教授、助手、お役人、会社の研究所の人等々一年間アメリカの大学院で学ぼうという人達で、二十日も一緒に生活したわけですから、一同大変仲良くなり、いろんな人とめぐり合えて得ることが多かっただけに別れるのも残念でした。また船のなかでは、酒、タバコが免税でウィスキー、ビールなど大変安かったのも友情を深めた理由のひとつかもしれません。でも何と言っても待望の米国に明日は着くのだという興奮に、送別会の方は気もそぞろといった有様だったようです。写真はスタンレーパークの入り口で、同公園には自然林や、野球場、劇場、動物園などもありました。 (筆者は米国留学中)

 

8 アメリカ大陸の鉄道横断

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-21-1 を一部加筆修正

 

(いまでは差別語で使用不可の表現があるが、当時の雰囲気再現であえて原文のまま残す)

半世紀以上も昔のことを未だに覚えているのはよほど印象に残ったのだろう。1958年7月に氷川丸で3週間を要し Seattle に着き、そこから Orientation Center のある Kansas へ行った。当時の列車には高価な Pullman と安価な Coach の2種類あったが、米刻政府から往復ともPullman 社製でももっとも贅沢な個室寝台の券を貰った。その個室内には洗面台とトイレがあり、朝と夕にボーイが、座席を昼間にはソファに夜にはベッドにと作り替えてくれた。勤務地の八幡出発前に、フルブライトでの留学から前年帰国した先輩より「井上君、アメリカでは驚くことが多いが次第に慣れるだろう。ただ、私の失敗から一つだけ事前に注意しておくと、日本では事務所でも設置されていない空調設備がなんと寝台列車にも付いている。後で思えばそのせいで砂漠を通ってもそれ程暑くはなかったのだが、Seattle で乗るときは涼しいし空調が入っているとは想像も付かなかった。しかしカンサス駅で降りたとき、急にしかも全く予期しなかった暑さで卒倒してしまった。それだけは注意するように。あとは Good luck!」と言われていたのを思い出した。なるほど列車内に入ると真夏の夕方にしては涼しい。それと列車が何の合図もなくスルスルと出発するのには驚いた。一眠りした後で夜中に山中で1時間以上も停車していたので、ボーイに「事故か」訊ねると「2時間の遅れだがすぐ取り戻せる。それよりも降りていると警笛もなく動き出すので残して行かれないように」と注意され Kansas に着くまでは列車を離れないこ

とにした。翌日は行けども行けども砂漠の中を延々と走っていく。最初のうちは空調が効いて快適で外は暑いのだろうなどと物珍しく眺めていたが、何時間も砂漠しかない景色に見飽きてきた。すると、戦時中の国民学校(小学校)で「太平洋で米国海軍を殲滅し、西海岸に上陸したら次はニューヨークまで進軍だ」などと聞いたのを思い出し「列車でも半日以上もかかる酷暑の砂漠が横たわるこんな広大な国と良くも戦ったものだ」と改めて思い知らされた。その翌日の昼頃に Kansas の駅に着いた時には先輩の言葉を思い出し覚悟して降りたが、そうでなければひっくり返っただろうくらいに暑かった。

University of Kansas での一ヶ月の Orientation からは、次の留学先である Cleveland Ohio へ向かったが Chicago で乗り換える必要があった。その間のことは延々と続く広大な農地と牧場に驚いた以外はほとんど覚えていない。しかし、いまも強烈な記憶として残っているのは Chicago 駅での食事を済ませて食堂から出て来た時のことだ。

いま流にはアフリカン-アメリカンと言うべきだろうが Black の人が私を追いかけてきて「いまどこから出て来たか」と訊くので「ここからだよ」と出て来たところを指すと「そこは White only の食堂で我々 Colored はこちらの部屋しか利用できない。良くもそこで食べられたものだ。以後注意するように。我々はここで食べるのだ。」と連れて行かれた部屋を見ると、なるほど中は全員 Black だ。そこで、出発前に米国大使館の人から「皆さんは Black との区別がある場所でも White の方に入ってください」と言われたことをこのことだったのか何となく気まずく思い出した。そういえば、それまでに入国してホテルだったかで何度か記入させられた “Race” 欄になんと書けば良いのかとわからずに訊くと「Caucasian, Mongolian, Black から選んでくれ」と言われ、そう言われれば「Mongolianだな」と書いたのも思い出された。あの当時は、そういった差別とか差別用語がまだまかり通っていて、数十年後にいまのようになるとは思いもよらないほどだった。

Chicago からCleveland の間は Lake Erie やアメリカ大陸の農地の広大さに圧倒された以外にはとくに記憶の留まることはなかった。

(標題では大陸横断と書いたものの Seattle から Cleveland までが3,000 km 強、Cleveland からNew York まではさらに800 km近くもあるが、それは半年後以降に鉄道ではなく空路とバスを利用したので、横断とは言え、ここでは西海岸から Cleveland までのみの記述となりその点はお許し願う。)

 

 

9 「東西各国一見一筆」(2)

-旬刊八幡製鐵所報『くろがね』1273号(昭和34年2月15日)掲載 計量管理課 井上義祐-

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-17 転載一部加筆修正転載

 

米国での一日目は、親切なアメリカ人の家庭に招かれシアトル市内をドライブしてもらうなどして、楽しく過ごしました。

翌日、急行列車でアメリカの真中に位置するカンザス州へと出発しました。一日目はロッキーの山沿いでしたが、二日目から、行けども行けども全くの大平原で、土地と言う土地はすべて耕してある日本と比べ、アメリカの国土の広さ豊かさを痛切に感じました。

カンザス大学では、すでに国務省の援助による留学生のための予備教育が始まっていて、世界二十三カ国から五十名近くが集まっていました.初めの数日は難しいことばかりで、相当に神経を使ったらしく、夜ベッドに入ってもなかなか寝付かれないぐらいでした。

大学では、英会話、発音、文学鑑賞、作文、米国事情一般について、アメリカ魂の実際的な教育を受けました。また週末は近郊の“アメリカ的なもの”を選んで見学したり、家庭に招ばれて数日を過ごし、アメリカ人の日常生活を体験したりしました。非常にうまく仕組まれていて、アメリカ人の生活を知る上に有益でした。

米会話では、日常語のほかに、学生語(オースの類)を覚えたり、講演の練習をしたりしましたが、インド人はなかなか雄弁でした。作文、文法は大したこともありませんでしたが、われわれ日本人からの留学生には、発音の時間が一番の鬼門でした。RとL、BとVの区別、IとEの発音、それに調子を上げる、下げると言われるごとに顔をしかめたり舌をモゴモゴさせたり。

日本語は英語と全く違うし、日本ではあまり使わないのだから仕方が無いと自らなぐさめながら、テープに録音された自分の英語に、こんなに下手だったのかとあらためて感心しました。そんなわけで発音では大分失敗しました。

ある晩餐会に招待された時、隣席の教授と話している折、その室内にも米国旗があったので、「米国に来て奇異に感じたのは、一日に少なくとも二、三箇所で米国旗を見ることだ。戦後の日本では旗日以外には国旗(フラッグ)を見かけなくなったのに・・・」と話したところ、「ヘェー、皆で食ってしまったのか?」。フラッグ(旗)をフロッグ(蛙)の言い違い(聞き違いであって欲しいのですが)とわかり、大笑い。教授いわく、「いくら腹がへっても蛙までは食べつくしませんよネ。」。

またある週末に、大分離れた町から、一団五十名に招待がありました。町をあげての歓迎、巡査が車で先導し、町の紳士連の車十数台に分乗して見物したり、又新聞に出たりで大騒ぎでした。そこで五十軒の家庭に分かれて一泊しました。私の行った家にはラウレルという娘がいました。その発音は R と L のまじった一番不得手のもの。ラウレルと言ってもノーという。舌を先に出し、後に引っ込め苦心の末、十回目ぐらいにやっと「イエス」と言ってくれた時には全くホッとしました。おかげで以後、R と L の区別が大分うまくいくようになりましたけど。後日談として、苦労の甲斐あって、彼女からの別れのキッスまでしてもらえる程の大の仲良しになりました。(彼女とは三才の女の子でした。)

社会問題では、歴史、政治などと共に、黒人問題も予想以上に講義の話題にのぼりました。日本の事情と比べて非常に違う点も多々あって、今まで当たり前だと思いこんでいたが、変だなと思うようになったり、また逆だったり。大学のこともその一つでした。州立大学には、その州で高校を卒業した希望者すべて入学させる義務があるとか。しかし卒業させる義務はない由。したがって、大学の一年生と言うのは非常に多いが、卒業する頃はずっとへって、工学部では四分の一にも満たない場合もあるそうです。また、女子学生の中には、学士号ではなくミセス(夫人)号をとりにきているのが多いという説まで出たくらいで、その説によると、在学中に夫となる人をみつけて、さっさと結婚するために入学するのだそうです。もちろん皆がそうではありますまいが—-。

講義が終わったあとの夕方は、世界各国からの友人との交流に明け暮れました。粋なベレー帽のフランス人、フラメンコという民謡がうまく外見に似合わず熱心なカトリック信者のスペイン人、親日家のビルマ人、「君が代」を日本語で歌ってくれ、また荒城の月をアメリカの月夜に一緒に歌った東南アジアの友人は、宗教上、右手しか使えないので、顔を洗う時に右手に手袋をはめたて片手で洗うとか、またワイフは四人までもてるけれど二人にするというアラビアの友人、ダンスの上手なペルー人、幕末の志士のような趣のあるパキスタン人。民族習慣は異なっても、本当の友人になれる人たちでした。彼らと話していて、日本は工業力が世界でも有数のものであるという自覚を持つとともに遅れている国のエンジニア達が自国の工業振興にいかに熱心になっているか分かり大変励まされもしました。

このようにして、四十日間の間忙しく学び、世界各国の友人を得、またアメリカ英語にも大分なれて、いよいよ専門の分野を学ぶべく、皆と別れて単身、オハイオ州クリーブランドへとやってきたのでした。 (著者はアメリカ勉学中)

 

10 英語発音の苦労と失敗談(1)

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-05-1 を一部加筆修正

 

外国語の発音は若い時にその国で少し生活し、直面した場の言い方を真似して覚えれば簡単に学習できると思う。しかし、自費留学が本の法律・経済上で不可能だった当時(1958年)は、八幡近郊には英会話学校はなく、またテープレコーダーもまだ存在せず、英語のヒアリングは英語の駐留軍向けニュースを聞くのがやっとで発音練習は自己流だった。これから述べる失敗談や苦労話は、海外でのホームステイや旅行が自由でテレビも英語付きで見られるいまの若い人には、想像ができない時代のこととご承知ください。

やっと太平洋と大陸を客船と列車で横断した後、大学院の9月新学期開始に備えて、全米で6箇所の大学に設置された Orientation Center の合宿で、6週間にわたり世界各国からの留学生向けの英(米)語およびアメリカの文化や生活習慣などを学んだ。

最初に、英語の文法・読解力・英作文・発音別に能力別クラス分けテストがあった。日本からの留学生は4名とも文法では90点代で授業免除になり、発音では私も含め最下級となった。その際、インド留学生の一人が特有の巻き舌風の発音で「自分は英語の native speaker でいままで何不自由したことがない。その私に発音練習をせよとは無礼だ」とすごい早口に抗議した。先生は「貴方の母国ではそうだろうが、アメリカでの発音は少し違うのでそれに慣れる意味で・・・」と答えたが、「私の話すのが正しい英語で、いまさら米国なまりになるなど真っ平だ」と受講拒否したのにはその自信のほどと剣幕と共に驚いた。

発音クラスには日本人の他にスペイン人数人などがいた。 日本人共通の悩みは、R と Lの区別であった。最初の時間のこと、先生が後方からの、私達には「ライト」としか聞こえない声に、それが right なら右腕を、light なら左腕を上げよという。自信のない私たちが右や左と手旗信号宜しく上げ下げする様を見て「どうして分からないの?」と他のクラスメイトからの失笑を買う。その一幕が何とか終わると今度は先生が “speak” といえという。何故?といぶかりながら発音すると、どうしても “espeak” としかいえない一団がいる。見るとスペイン人達だ。今度は我々が「どうしてエが付くの」と笑う番だ。スペイン語では “espania” のように語頭の s が必ず es となるらしい。この授業のおかげで私の発音も少しは米語らしくなってきたと思った頃、カンサス郊外にホームステイすることとなった。そこの Laurelいう3歳くらいの女の子がいた。この発音でこそ練習を重ねた成果が出せると、細心の留意で彼女に呼びかけたが、その度ごとに、彼女は両親とは違い情け容赦なく “no” と 言われ R と L の区別を10回ほども訂正させられたのには参った。やっとそれに “Ok” が出て安心と油断をし、ふと庭を見ると隣人が芝生を機械で刈り始めている。それをガラス戸越しに見て「芝は機械でカットするのだ」といったら “No, with diamond” と返事が来た。いくら金持ちのアメリカでも芝をカットするのにダイアモンドを使うとは?? そこで、はっと grass(芝)のつもりが glass(ガラス)ととられたのだと気づき、注意して発音し直すと Laurel の件での苦闘を見ていた両親も気づいたらしく爆笑となった。常に細心の留意が必要だ!! ついでに「芝」は grass でなく lawn(またR とLの区別に細心の留意)は「芝を刈る」には cut は使わず mow、「芝刈り機」は lawn-mower と聞き、日常生活単語を体得すると同時に当時の日本家屋と庭園では珍しかった彼らの芝生文化の一端を感じた。

朗読のレッスンでは、エドガー・アラン・ポーの詩 Annabel Lee を先生が毎回幾つかのフレーズに分けて美しい抑揚で朗読されるのを聞いてはそれを真似て朗読した。また、先生の朗読が入った大きなテープリールを自習室の初めて見たテープレコーダーで再現できたときはその便利な文明の利器に感激した。確かにそれを使って何回も繰り返し先生の朗読を聞くことで微妙な発音・抑揚の真似を納得いくまで学習でき、文明の利器のありがたさをつくづくと感じた。

 

 

11 アラビア数字の由来と漢字のはなし

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-15-1  を一部加筆修正

 

カンサス大学でのオリエンテーションで、世界各国からの留学生に英語で5分ほどのショートスピーチの練習をさせる授業があった。インストラクターから「自国のことで、何か聴衆の興味をひく話題を選び所定時間内に話してください」といわれた。

各国の学生からは興味深いスピーチが次々とあったが、そのなかでもモロッコのカサブランカから来た幼顔にチョビ髭の留学生の話は、その最たるもので未だに忘れられない。それは「私の出身地 Casablanca は16世紀半ばにポルトガルがその地に要塞を築いたとき、まわりの集落の家が白かったので、Casa(家)blanca(白)と呼ばれました。また、私が若いのに髭を生やしているのが奇異にみえるでしょうが、これはアラビアの男性が成人の証しに蓄える習慣によるのです」と始まり、本題に入って、

 

黒板に上図のような絵字を描き「ヨーロッパではこのように7に横棒を入れることが多いがそれは何故でしょう?」と皆に問いかけた。するとドイツからの留学生が「そのように書くのを良く見かけるが、多分1と7は紛らわしくその区別のためだと思う」と答えた。「そう思うでしょう。でも私の答えは違って、その由来にさかのぼります」と、 彼は上図を指しながら、皆に「この絵を見て何か気づくことがありますか」と再び問うた。皆で考えたが答えは出ない。すると彼は「ヒントを出します。それぞれの絵字を構成している角の数を数えてください」と言った。数えると、あら不思議、1には一つ、2らしき絵には二つ —-、7らしき絵には七つ、9らしき絵には九つ、そして0には零だ!! 皆がびっくりした顔をした。「これで7に横棒を入れる人がいる理由が分かったでしょう」とのことに皆が納得した。その後私が調べたかぎりでは、これに類した説明は見たことがなくその真偽のほどはわからない。しかし、後にイタリアに住むことになって、彼らの多くも7に横棒を入れるので、その理由を聞くと一瞬困った顔をして、やおらクラスでの最初の答えと同じ「1と紛らわしいからだろう」というのがほとんどだった。そこでこの「角の数」の説明をすると「なるほど、そんなことをよく知っているな」と私の株が少しく上がったものだ。

ついでに、私のスピーチは漢字の象形性で、「漢字は本来中国で象形文字・表音文字としてずっと昔に中国で作られ日本では1300年くらい昔に借用した。最初は表意文字だったろうが、それから日本独特のカタカナとひらがな表音文字を作り、それ以降は主として象形文字すなわち絵のように意味だけを持たせ、その読み方は、同じ意味の日本古来の幾通りもの発音が可能とする日本独特の使い方をしてきた」と説明した。これはどの程度皆に理解されたか怪しいが、その後で「山」や「川」、「魚」「鳥」などその形に合うように漢字を形取ったとして連想を楽しんで貰った。最後に子どもの頃習った「亀」という字の本字「龜」を必死に思い出し、それを黒板に書いて「これは動物の名前だが何だろう」と訊ねようとしたが書き終わる前に 「”Turtle”だ、亀の甲羅に頭としっぽがあるからすぐ分かる」との答えが一斉にあがって皆が大喜びであった。

 

12 英語の学び方

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-04-2   を一部加筆修正

 

私の20歳から25歳までは英語の習得にほとんどの自由になる時間を費やし他のことができず残念に思う。これも当時では米国政府の全額支給留学生試験に合格するにはやむを得なかったろう。しかし、いまの時代ならもっと効率よくできると思う。外国語の学習を hearing, speaking, reading, writing に分けると、その順序に学べるのが自然で最も効率良いのだろう。帰国子女などはその好例だ。でも、日本で育つ場合はそれも難しいが、いまならテレビでもその気になりさえすればある程度それに近い状況で学べよう。私の世代が英語を学んだ頃では、地方都市では英会話学校もなく、テープレコーダーなども存在しかったので、せいぜい FEN という駐留米軍向けの Every hour on the hour つまり毎時間きっかりの10分のニュースを一日に何回か聞くのと、reading で語彙を増やし、簡単な文を文法的に間違いのなく英作文してそれを話す練習に時間を費やすしか手段はなかった。

しかし、留学できて米国で生活することになって以降、以下に述べるような工夫をすることで初めて上に述べた自然な順序に近く学ぶことができ、それ以降は効率的に身についた。

その始まりは、留学して間もない頃、ピッツバーグに当時世界一であった US Steel 社を訪ねた時だ。ホテル前から市街電車に乗るのに、電車が US Steel 本社前を通るのか確認したかった。即座に英作文をして、主語が電車だから述語は3人称単数としてなどと考え、運転手に少し堅苦しいとは思ったが “Does this street car go to the US Steel head office?”と訊いた。彼は一瞬戸惑った風だったが “yes” と答えた。即座の返事ではなかったので「いま言ったので意は通じたと思うが普通はなんと訊くのか」と訊ねると “Do you go to the head office?” と語尾を上げていえば良いという。「なるほど運転手が行かねば電車は行かないわけだ」と変な感心をしていると、さらに “Go to the head office? “で良いという。私の感心した顔を見て「”to the head office?”でも良いよ」といってニヤリと笑った。文法的にどうあろうと通じれば良いのだ。日本語だって八幡では「本事務所に行くの?」と訊くではないか。(その頃のピッツバーグでヘッドオフィスといえば US Steel のことだった。)

それを機に,何か言って相手が少し怪訝な様子で応答する時は「このような場合には普通どう言うの?」と訊ね、ついでに幾つかの別の言い方も教えて貰った。そして重要なことはその場でこっそりモゴモゴと繰り返し発音し、なるべく早くそのような状況を作って直ぐ使ってみることだ。すると次からは自然にそれが出てくる。単語と同じで必要なときに直ぐ出てくるようなセンテンスの束として覚えておけば考える手間もないわけだ。この方法を覚えたらあとは雪だるま式に会話が楽になって来た。

別な実例としては、たまには映画でもと思って映画館で通路側に座った。すると若いカップルの先に来た男の方が “Excuse us”といって前を二人で通った。私の世代では ”Excuse me” という表現は習ったが us は初耳で「なるほど二人だと “us” で彼女の分までいっているんだ」と変な感心をした。これを使うチャンスは家内が来るまでは作れなかったのだが直ぐに覚えた。さらに、この類で困ったのは赤ん坊との会話だ。赤ん坊だけだと「イナイ、イナイ、バー」で通じたが、ママが来たのでこれも訊くと “peek-a-boo” というそうで、そう言っても通じて笑った。(何を隠そうこのスペルはいま初めて和英辞典で知ったのだが。) お悔やみなどは日本語でも難しい。英語でいう必要に迫られて友人に訊いたら、ムニャムニャいうのだといった類のことでこれも日本語と同じだなと変なことで感心した。

このようなことは、日本語だと子どもの時から自然にその場に適した言い回しを真似して(「学ぶ」の語源は真似ると聞いたこともあるが)覚えていくのだから、大人が英語を学ぶのも、それが一番効率良いのだろう。その環境に身をおけない場合には私が体験した方法が次善の策だと思って学生達にはそのように伝えていた。

 

13 Due Dateのはなし

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-18-2  を一部加筆修正

 

これまでとは少々趣を変えて、今回は私の言葉に関する失敗談を紹介しよう。私が米国政府の留学生として、Case工大大学院に入学早々の話である。留学最初の講義は月曜日の「超音速流体力学」であった。英会話はまだ不自由な状態だったが、超音速機の翼や機体設計の基礎の学問で英語が不自由でも数学で何とかなるだろう思った科目だ。教授は基礎例題を幾つも解いた後、講義の理解に必須の数学課題のプリントを渡し全部解いて来週提出するように言われた(と思った)。難解な沢山の数学の問題で、機械科卒業後2年間の企業勤務中は留学受験英語のみで数学とは疎遠だった私が解くには、40~50時間は要すると直感した。これは大変と周りを見渡すが皆は平然としている。彼等だって大変なはずと一瞬いぶかったが、確認するのもおっくうで(これが大失敗)次の月曜日までの一週間で解くしかないと観念した。

月曜日の夕方から多数の難問を解き始めた。学期第一週なのに、他の3科目の講義も皆2時間は要しそうな課題が出た。次の日曜日は初対面の教会関係のボンドさんが迎えに来て礼拝後に家へ来るように電話を貰っていたので(それくらいは聞き取れた)、数学の課題は遅くも土曜の夜までに済ます必要がある。そのために、他科目の課題は次週の講義前にやることにして、月曜日から土曜日までに毎日何題まで解くべきかの日課表を作成した。それからの毎日は、日課を終えるのに翌朝2~3時まで要したが予定通りには進まず、金曜日は一日中、土曜日も過ぎて翌日曜日の午前4時頃までほとんど寝ずに頑張り通し、やっと解き終わった。「万歳!」。頭が朦朧とし朝8時にボンドさんが来るまで一寸ベッドまどろむつもりが熟睡してしまった。「キンコン」チャイムがどこかでしつこく何回も鳴っている——-「あっそうだ教会だ!」。寝ぼけ眼でパジャマのままドアへすっ飛ぶ。これで、後々まで「Yoshiとの初対面はパジャマ姿だった」と笑われることとなる。

教会での礼拝後は夜遅くまで家族で歓待してくれた。課題のことはすっかり忘れられたが、わからない英語が眠りこけながらなのでますますトンチンカンだった。翌月曜日、授業開始と同時に教授の席に課題を出しに行ったが、クラスの皆は誰も出さず変な顔をしている。授業の後で何人かが「課題を全部解いて提出したのか」と訊ねるので「そうだ、で君は」と言ったら「あれは3週間後の月曜日が due date なので今からだよ。一週間で全部できたとは驚きだな」と言う。それで分かったのだが、due date という単語が分からなかったばかりに一週間死ぬ思いの苦闘を続けたわけだ。以後、この失敗を肝に銘じ、課題が出ると最初に due date を確かめることにしたことはいうまでもない。また、英語がわからないことはすぐに聞くことを鉄則にした。若い頃の数多い失敗談の一つである。

 

14 「蛙」と「システム思考とコンピュータ」のはなし 

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2015-07-20   を一部加筆修正

 

蛙を湯に入れると跳び出るが、水から徐温すると気付かず茹だると言う。「人はどっぷり浸った環境変化には鈍感だ」との例えだ。新刊訳本ドネラ・メドウス著「世界はシステムで動く」を読み「システム思考とコンピュータ」もその好例だと改めて気付かされ、それでいまの茹だった状況から、まだ水だった頃までを順次記憶から取り出す気になった。

まず「コンピュータ(digital)」だがいまは机上のパソコンでもメモリがG(10)9BやT(10)12Bあり文書や画像処理で不自由はないし、中小企業でもその使用は前提だ。Super Computerに到っては、メートル単位で大は宇宙(1027)、極小はナノさらに素粒子(1035)での諸科学・経済予測など数値解析に不可欠だ。しかし55年前はそのdigital computerが日本には存在しなかった。それを初めて見たのは1958年に留学先の米国Case工大での巨大な真空管トンネルのUNIVACⅡとより小型のIBM650だった。早速2進法や機械語でのプログラミング゙を学んだ。修士論文では、加熱炉の数式モデルを1K(103) 語ドラムメモりーのIBM650に機械語で苦心惨憺組み込んだ。その最適解はIBM650では能力不足でanalog computerで求めそれをIBM650に入力しsimulateした。その同じ ’58年に米国で大型計算機 IBM7070 (コアメモリ10K語)が発表された。極めて高価で月額借り賃は日本の大企業での300人給料分にも相当した。’61年に日本で初めて八幡製鐵がそれを設置し、給与・生産・経理などバッチ処理システムの構築運用で数百人のプログラマやSEを育成した。’64年には依然高価だったがオンライン処理も可能なIBM360が出現した。’60年代後半は日本経済の高度成長期で、鉄鋼業では欧州開発の最新技術を実用化した臨海製鐵所が続々と出現し、その一つ君津製鐵所では設備と管理のシステムを並行企画し世界初のオンライン生産管理を’68年に実現した。当時の記憶容量が最大256kBと極めて小さく(当時はとても大きく)その制限内でのプログラミング゙に数百人が日夜呻吟した。’75年以降には続々と新機種が出現し急速な値下がりでそれまでの大企業のみならず中小企業へも急速に普及し始めた。’80年後半からのパソコンの能力アップは’90年以降のinternet普及と共に日常生活の一部となり今日に到っている。

次に「システム思考」だが、1959年にCase工大が「世界の大学で初めてシステム・センタを設置しプロジェクト・チーム編成で Interdisciplinary (学際的)に対処する」と当時の米国でも目新しい語句で喧伝したほどにそれは斬新だった。その思考法は’60年代以降のコンピュータ使用システムの開發と共に日本でも進展・浸透し始めた。例えば初期のコンピュータの能力不足をシステム面でカバーすべく、君津製鐵所では、八幡・戸畑における先人達の工夫の結晶である「製鐵所の運営管理方式」を基盤に、後述のマン・マシンシステムの階層構造で、その下層は工場・工程別のコンピュータ分担などの工夫がなされた。その思想と言葉なしではいまや社会が存立しない状況と言えよう。(帰国後の生産計画のコンピュータ利用に早速プロジェクト・チーム編成を用い成果をあげることができた。)

冒頭の新訳書の「システム理論を複数の弁とタンク結合の制御図を用い、陥りやすい落し穴なども極めて平易な解説」を読み、60年近く前に学んだ制御理論を思い出して、それ以降の急激な環境変化の中で茹だった「蛙」の身の例え話へとつながった次第だ。

同時に著名なローマクラブの「成長の限界」主執筆者の彼女が、権威ある大学教授の職を捨てて一科学ジャーナリストに転身した理由を「howよりwhatが重要と考えたから」としている点で、昔私が無機的な設備対象のプロセス・コンピュータ分野からビジネス・コンピュータの中でもとくにその管理 loop 内で人の暖かみが感じられる有機的な生産経営管理分野へ移った理由を、これまで自身の数学的能力の限界や、昔のORの講義での「精緻な数式モデルでも人の優れたひらめきは組み込めない」の残響だと思っていたのに加え、当時のコンピュータのメモリ不足をカバーするのに「マン・マシンシステム」として現場の人達を巻き込んだシステム構築に、知らぬうちにのめり込んだせいもあったのだと、この読書で改めて気付かされた。

 

15 英語発音の苦労と失敗談(2)

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-05-2  を一部加筆修正

 

このように始まった留学生活だが、授業は工学部だったので、数式が理解できれば英語での説明は少々分からなくても理解できた。答案を書くときにも数学で 「∴」 と書けば「したがって」、「∵」 で「何故ならば」と世界共通の数学用語で、余り英語では不自由しなかった。ただし当時産業界にも応用され始めた OR(Operations Research) だけは、当時は草分けとして世界的に有名な教授から、自著の教科書の40~50頁を毎回読みその概要を要約記述しておく課題があり大変だった。

しかし日常生活では悪戦苦闘した。まずアクセントの場所を間違えると驚くほど全く通じない。とくに地名などはそうだ。一年経ってもそれは続いて、2年目で初めての夏休みに入り Rochester にある計器会社での実習を思い立った。鉄道で行くことにして、駅の切符売り場で「Rochesterまで片道1枚」といった。すると駅員が「どこまで」と聞き返す。アクセントが問題なのだと察して4~5回ほどアクセントをあれこれ変え繰り返して通じない。「ニューヨーク州の大きな都市の名前だ」といっても「そんな都市はない」との返事。困り果てて最後の手段とばかり “Rochester, N.Y.” と書いて示したら「Oh! Rochester”」との答え。今度はこちらが驚いた。なんとアクセントが思いもよらなかった最初の「ロ」の所にあり、Rの音がK のような破裂音に近く、「ハッ チェスタ」と聞こえるほどだった。それを真似て発音すると「何故最初からそう言わぬ」とばかり直ぐに切符をよこした。NY州の大都市といえば想像してくれても良さそうなものだと思ったが、朝鮮事変のとき佐世保の街中にあふれるほど集結したアメリカ兵に「セースボ・ステーションはどこ」と聞かれ、また、そののち東京の山手線車内で「これはケブクーロを通るか」と聞かれそれが「池袋」だと思い到るのに数回は聞き直したのを思い出してどうやら納得できた。

ついでに関連してもう一つ思い出すと、夏休み期間に学会が開催されたシカゴで、東大の磯部教授とご一緒した翌日、夕食で同席した私の指導教授に「磯部教授が宜しく言っていました」と伝えたところ「イーソベ?そんな人は知らない」との返事である。「昨日会った教授ですよ」「いや、そんな人には会ってない」という。「夕食の時に横に座っていた人ですよ」「??ああ、プロフェッサー アイソビーのことか」(とっさに Isobe の iso は isotope の iso、be は be 動詞と同じだ。Isobe と書けば「アイソビー」と発音するのが当然?

以降、地名の発音時には音節(syllable)ごとに最初から順次アクセントを変えて発音して相手の反応で正解を探ることにした。ワシントンではポトーマックは二音節目にあるから簡単だったが、ナイアガラの場合は三回目で正解の「ナイアーガラ」に到達できた。逆にアメリカ人にとってアクセントなしで読むことは非常に難しいようで、「セースボー」 「ケブクーロ」の発音も許せる気がした。 そもそも日本語をローマ字綴りで表現するのが無理な話。日系二世のハワイ出身上院議員のダニエル・イノウエが “Inouye”と表記する理由が分かった。いまはともかく留学時代には “Inoue” だと私の経験では「アイニュイ」、「イーニュー」かせいぜい「インドゥー」と呼ばれるのを覚悟し、それに近い発音・アクセントの名前が呼ばれたら一応自分のことかと思えるようになった頃に留学が終わった。「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」。英語の発音の話がいつの間にか日本語ローマ字読みの苦労話になってしまった。

 

16 日系一世の人と正月料理 

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-02-21 を一部加筆修正

 

留学生活が始まって3ヶ月でクリスマスと正月が近づいた。大学院では私のようなフルタイム学生は極めて少数で、会社勤務をしながらその許可を取って週に一または二回夕方のクラスを二つくらい受けるパートタイム学生が大多数だった。フォードのエンジニアとして勤務し、週一日夕方の自動制御のクラスに出てくる Saburo(Sab)という二世の学生が、「日本語は話せないが」と英語で時折話しかけてきた。

クリスマスはその前後一週間近く続く休暇があったが宿題に追われた。イブと当日は両親代わりのような Bond 一家と教会に行き、その家でご馳走になり楽しく過ごした。でも年末は28日頃から授業が始まり、元旦のみが休みで翌二日から通常通り授業が始まる。日本流で言えばクリスマスが正月で正月は成人の日に相当し、これは後に3年間住むことになったイタリアでも同じことだったが、まことに味気ない正月になるところだった。

このような状況の年末の授業で、Sab が遠慮がちに「迷惑でなかったら正月は両親の所へ一緒に行ってくれないか」という。「どうして」と訊くと「両親は何日もかけてテーブル一杯の料理を作って待っている。しかし、一緒に住んでいる長男夫妻はともかく、ロスから帰ってくる次男は余り和食を好まない。自分はワイフが中国系で正直いってそれほど好きではない。母親は苦労して正月料理を準備するのにそれを心から喜んで食べる人がいなくて申し訳ない。また、耳の遠い父親に付き合って意味も分からない変な節回しのレコードを聞くのも辛い。Yoshi なら両方とも喜んでくれると思うので」との返事だった。100万都市のクリーブランドでも当時は中国料理が数軒のみで日本料理店はなく、醤油など和食材店が一軒あるだけで、日本食とは縁遠くなっていた私には大変嬉しい話で 喜んで受けた。

元旦早朝に Sab 夫妻が迎えに来てくれて一時間あまりのドライブで郊外の両親の家についた。両親は70歳前後で、九州と関西育ちの私には少しわかり難い東北弁だったが、日本語で話し合えるので訪問を大変喜んでくれた。食堂に入って、一畳分はあるかと思われる大きなテーブル二つの上に、数々のお節料理が大皿に盛られているのには驚いた。私の幼年時代の戦前でもこのように多くの品数のお節料理ではなかったし、ましてや食糧難の戦中と、戦後十数年でやっとそれを脱しつつあったが、万事略式になった当時の日本ではもはや見られないほどの大ご馳走だった。この料理は、彼の両親が故郷の福島県を出られた大正年代における農村のお節料理そのままの再現であったろう。私が喜んで食べるのを見て彼の母親は「私達にとってお正月は大切な行事で、ロス在住の次男に頼んで食材を送ってもらって料理をし、餅をついて準備するのが楽しみだ。息子達は何とか食べてはくれるが貴方が喜んで食べてくれれば本当に作り甲斐がある。気に入ればまた来年も是非きてください」と大変嬉しそうだった。Sab は母親と小声で話しあっていたので「何だ、日本語が話せるではないか」と思ったが、それは東北弁の女性言葉で、彼が私にしゃべれないといった真意も想像できた。屠蘇を飲み、雑煮とお節料理で腹一杯、それに久しぶりの日本語での会話にこの上なく幸福な正月気分に浸ったところで、彼の父親がやおらレコードを出してきた。Sab は「これから数時間は Yoshi に任せる」といって私を残して部屋から出て行った。それは、私の子どもの頃聞いた廣澤虎三の浪花節で「あんた江戸っ子だってね、食いねぇ、食いねぇ」と寿司を勧める有名な清水の次郎長の台詞のところで、このときはまさか将来にその次郎長がいた靜岡市清水区の近くに住むとは思ってもみなかったが、これも久々に思わぬところで聞けて楽しかった。その翌日、正月二日というのに早速また授業が始まった。

 

17 日米の社会常識の違い(半世紀以上前の婚姻届の顛末)

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-02-10 を一部加筆修正

 

常識とはその時代と社会とに特有のものである。時代の変化は緩やかなのでその間の常識の変化には気付かないこともあるが、社会共通の常識では同時代でも国が違えば「常識がこんなにも違うのか」と驚くことがある。 以下に述べる婚姻届の顚末(てんまつ)もその好例だ。

留学後約10ヶ月の1959年6月に、「結婚は二人ともが留学した後で」と約束して3年になる婚約者から、費用支給の留学試験に合格し私のいるクリーブランドで学ぶ旨の手紙が届いた。すぐ後で、両親からは「そちらでは面倒だろうと婚約者の母親と一緒に婚姻届は済ませた」と知らせてきた。両親の早手回しに驚きはしたが異存はなく了承と返事の手紙を出した。挙式前の教会における3回の結婚予告は、二人が在籍する東京と八幡の教会に依頼状を出し、出席できない双方の親代わりをボンド夫妻に頼みに行った。 そこでの夫妻の驚きようは私が仰天したほどだった。”What? You said you were married? When? ”先週のいつかはわからない」、「Yoshi、日本では本人のサインなしで婚姻手続きが可能なのか?」と訊く。「親が必要書類を揃え、代理人として両家の印鑑で手続きをしたのだ」と返事をした。”That’s impossible here in US!!”「この国での婚姻届には、当事者が役所に行きき二人揃っての同時サインが必要でこれは常識だ。例外は、前大戦中に欧州で重傷を負った米兵が、婚約者も同意のうえ欧州では軍の上司が、米国では牧師が臨席し、同時サインを電話で確認しあって届け、一面の新聞記事になった事例ぐらいだ。本人不在の手続きなど信じられない」という。それも一理はあると思いながらも「日本ではそんな常識はない。受理されたのだから可能だ」と返事したが、「日本ほどの文化国家でそうとは信じられない」とのこと。「でも、日本の離婚率は米国より格段に低い。日本の社会では相互信頼が高いから可能なのだと思う」と米国の常識が正しいとのニュアンスに若干抗議の意も込めて返答した。人生で一度しか(複数回の人もあるが)体験しない婚姻届を巡って、たまたま彼我の社会常識の大きな相違が露見したわけだ。

それが米国の常識だったことは、それから40年経った10年ほど前のNHKテレビ放映でも確認できた。近年は日本の離婚率も当時の米国と同じように格段と高くなり、また知らぬ間に婚姻や養子縁組の届けが受理されていたという新聞記事に、日本の都会でも次第に当時の米国社会「他人の生活には関与しない」流に近づき、常識も米国流に変わってくる日が早晩来るのかも知れない。

そこで、同じ教派信者のボンド夫妻に、挙式まで婚約者を預かって貰うことを依頼したら、挙式は教区の大聖堂チャペルで行いそこの牧師さんに司式を委託した旨が知らされた。9月には婚約者が到着し、司式予定の牧師に英文の告示結果と日本では入籍済みであることを告げて10月の初めの挙式を依頼した。すると「教会での告示証明は有効だが、ここでの挙式には日本の婚姻届とは無関係に ”marriage license”が必要で、もしそれなしで挙式をすれば私は刑務所行きになる。まず、Cuyahoga County 役所に行くこと」と冗談交じりの答えが返ってきた。二人で事務所に行くと書類が渡され、「これに記入し病院での健康診断書も副えて来週の今日にまた来るように」という。「一週間待つのか?」と訊くと「離婚が増えているのでオハイオ州では一週間の cooling off period が必要となった。 即刻の結婚希望ならそれが可能な西部の州を紹介しようか」という。翌週二人で結核と性病の検査済み証明書を持って、County 事務所に出かけた。すると、一週間待たされた理由となった質問の、”Are you still hot ?”と訊く。”Sure, we have been hot for the last three years!”というと“Oh, such a long period!”と大げさなジェスチュアで「ここにサインを」とのこと。米国の常識通り揃ってサインしたら“Congratulations!“ といって marriage license をくれた。

次の土曜日に,市の中心部のアングリカン大聖堂チャペルで挙式した。留学生援助団体関連のユダヤ系の人が約30人(異教徒であるユダヤ人が多人数でキリスト教の教会に入堂したのは初めてとのこと)、二人の留学先の先生・友人、教会関連など計50名ほどの出席があった。パイプオルガンの生演奏での入退場で、スナップ写真は当時の日本では珍しいカラーだった。式の直前に牧師さんからのここでは「指輪交換のとき普通は皆の前でキッスするが日本の風習でどうぞ」とのことで「九州男児が人前でキッスなんぞできるか」とばかり ”No” と答えた。しかし、式後に二人並んで教会を出る際、両側に並んだ人たちが花婿そっちのけで花嫁のほっぺにチュウチュウとキスをするのを見て「郷に入らば郷に従え」のことわざが頭をよぎった。

 

18 「米食」と「肉食」考

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12  を一部加筆修正

留学2年前の1956年の大学卒業時にはまだ米穀配給通帳が必要だった。配給米だけでは不足し、会社の独身寮では3交代勤務の労務加配米の「おこぼれ」で米飯だけは好きな量が食べられた。おかずも野菜の煮物と時々は鯨肉もあって戦時中の飢餓感とだけは無縁にはなっていた。

そのような日本から、急に世界で最も裕福な米国へ留学した。「もの」、とくに「食べ物」の豊富さや収入に比しての安価さには驚かされた。日本では高価で薬のように時たましか飲めなかった牛乳は安価で、その紙製の容器が日本の一瓶の数倍はある感じなので嬉しく水代わりにガブガブ飲んだ。すると、一月もしないうちに体重が増え、朝起きると身体中がギトギトとして、洋画で見るように朝のシャワーを浴びないと気持ちが悪いほどになり飲む量を控えた。また、当時の日本では、蛔虫の恐れから生野菜を食べる習慣がなかった。生の人参の入ったサラダに「ウサギの餌」を連想し、最初は嫌々ながら食べたが、慣れると大変旨い。「アメリカでは何が旨いと思うか」と友人に訊かれ、即座に “Fresh salad and ice-cream”と答えたときの友人が示した「期待はずれ」といった表情は忘れられない。とくにセロリはいまでも病み付きになっている。

その他 ”Milk Shake ”(ミルクセーキ)は15セントで一回では飲み切れないほどの量で甘く、カロリーもあり大学のカフェテリアで昼食をそれで済ませたことも再々だった。クリーブランドでは中心部近くにアフリカン・アメリカンが住むようになり、金持ちが郊外に引越した。こうして空いた幾つもの大豪邸の各室が学生向けのト貸部屋となり、そこで多くの学生が自炊していて私も数ヶ月借りて住んだ。「米飯」は恋しいが、炊飯に独特の臭いが伴うので、共同のキチンでは昼間誰もいないときを見計らって時々こっそり炊いた。

家族の一員として一時期厄介になったボンド家で、「今日はYoshiのためポテト代わりにライスにした」と、ポロポロ米を煮て、皆はそれに砂糖をかけて食べ始めた。甘党の私もそれだけは勘弁願って塩を振りかけて食べ驚かれた。それと逆に、イタリア風の豆がいっぱい入ったスープはゼンザイに似ていて甘いものと思ったのに塩味で驚いたこともある。また、日本では「肉食」とは縁遠く「米食」で腹を充たしていた私には、「少量の肉と野菜料理、ジャガイモとサラダに牛乳」の夕食では物足りない顔をしたのだろう。食後私の表情を素早く読み取ったミセスボンドが ”Are you still hungry ?” と訊いたのも無理はない。「カロリーは充分過ぎると思うが胃は満足していないようだ」と感じたままをいったら ”—???” と困った表情をされ、今度はこちらが返答に窮した。

授業で毎回出される課題に追われる留学生活では、夜の眠気と戦うのが一番辛かった。半年くらい経ったとき、ふと、「米食」を食した晩は夜に無性に眠くなるのではないかと思い到った。すると、それがかなり当てはまると思えた。そこでエンジニアらしく考えたのは、「石炭を焚いて蒸気エネルギーに変えるボイラー効率は、焚く石炭の品質に左右され、同エネルギーを得るには無煙炭などの高級炭が泥炭などの低質炭より少量で済み高カロリーを出す」ことだった。胃も「食物を消化し脳の思考力や身体の運動エネルギーに変える」が、胃にとっては、同じ発生エネルギー量に対し、「米食」の方が「肉食」より消化に多くのエネルギーを要し(換言すれば熱効率が悪く)その分、頭への血流が少なく眠たくなるのではないかという理屈だ。日本人の腸の長さは西欧人のそれと比してそのために極めて長いとさえいわれていた頃だ(いまはどうなのだろう?)。それで、当時、日本人が電車の中で居眠りするのを外人が不思議がっていたことも納得できる気がした。その後、一年経って家内も留学して来たので、宿題の多い月曜から金曜日は一日交替で洋食風に「肉」とサラダ、パンの食事とし、土・日のどちらかは副食を少なく「米飯」で腹一杯とする食事にして、その日だけは課題は忘れ早々と寝て留学時代を過ごした。この理屈の真偽のほどは不明だが、現在では電車でも居眠りが余り見られなく、老齢者が食後少し横になりたがるのはこれで説明が付きそうだ。最近では眠れないことはあっても眠くて我慢できないなどとは夢のまた夢だが—-。この頃このようなことを考える人もそうはいないだろう。

 

19 海外での和食の今昔

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2016-03-06 より

 

和食が世界文化遺産に選ばれ、世界中に和食店が出現して(中には日本人経営でない店もあると言うが)現地の人を主な顧客に寿司や刺身が賞味されるような日が来るとは、60年弱前の米国留学の頃には全く想像もできなかったことだ。当時は冷凍技術も未成熟で海岸から遠い米大陸内部での魚は臭いと不人気だった。当時招待された多くの家庭料理でも魚料理はあまり出なかったように思う。進駐軍として日本に滞在した人でも、天ぷらやすき焼きを賞味したと言う人はいても寿司や刺身は食べず嫌いのせいか賛美者は少なかった。したがって当時の海外の和食店は日本人客が主で、戦後の外貨制限下の日本からの New York や Chicago などの大都市に限った、単身赴任を強いられた数少ない大会社の駐在員を主顧客に数軒がある程度で、100万都市の Cleveland には中国料理店が数軒あるのみ(留学生には少々高価だったが)和食の店など思いもよらなかった。中国料理は、当時から世界中に住んでいた華僑相手でもあったろうが、確かにその多種多様な高カロリーの美味さはフランス料理と共に世界的に好まれた。それに比し生の食材を生かした低カロリーの地味蛋白な和食は、当時の海外では料理としての魅力に欠けていたのだろう。

魚と言えば、仲の良い大学院の友人でさえ「君たち日本人は卵や魚を「食べるんだって」と、 “(row)” に力点のある若干侮蔑的な質問だったので、「そうだよ、まだ米国のように各家庭に冷蔵庫はないので、生(なま)は採れたての “新鮮(fresh)” な間だけ味わえる贅沢だよ」と答えた。事実、日本でも当時は刺身や卵は贅沢品で日常の食卓とは無縁だった。さらには「日本では水槽で魚を飼って半身を刺身で食べてそこが再生するとまた食べるそうだが」と冗談交じりとは言え半ばまじめに問いかける者さえいたほどだ。キリスト受難の金曜日に肉の代わりに魚を食べるのはカトリックの信者だとも言われていたくらいで日本の魚屋に類する店魚専門店などはなくスーパーの一隅で魚が置いてある程度だった。。

日本食材も留学当時の市内には米国統治領の沖縄の人の店が一軒だけでお米や醤油とか松茸や竹の子などの缶詰を月に一回ほど買いに出かけるのが精一杯だった。スーパーでは “soy sauce” と称する中国風の醤油があり一度買ったが醤油とは似て非なものだった。いまは重宝される調味料としての日本の醤油も、慣れない人には独特の臭いが気になったようだ。その人達がいまや「生の魚なんて」と言っていた刺身に醤油をつけて堪能するようになるとは思ってもみなかった。

親切で食事に招いてくれる家庭に、たまには恩返しをしたいと、休日の昼食を和食でサーブすべくすき焼きを何回か供したが、ナイフ不要の箸で野菜と一緒に食べられ醤油味と砂糖とがうまく合って臭みも感じないらしくどこでも毎回好評だった。料理の手間は野菜を適当な大きさに揃える程度で簡単なようだが、当時の肉屋(Butcher)では塊でしか売らないのでそれをすき焼き用に薄くスライスするのが大変だった思い出がある。

ともかく、あの時代に見向きもされなかった和食が欧米のみならず世界各国でもてはやされるようになったことは、食文化の背景にある平和な、和を重んじる日本文化自体が一定の評価をえ始めていることと共に留学当時のことを思い出して嬉しく思っている

 

20 「メイドインジャパン」のイメージ

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-04-07  を加筆修正

 

私が留学で最初に訪米した1958年頃は、日本はまだ発展途上国と見なされていた。 事実、1ドル360円の為替レートでは年収もアメリカの1割に過ぎず、インフラ面でも高速道路網や高層ビルの連立など皆無で、見るもの聞くもの驚くことばかりだった。「メイド イン ジャパン」もいまでこそ高品質で新技術の代名詞となっているが、当時は「安かろう悪かろう」の意味で現今の100円ショップの様な店ではそのほとんどは日本製だった。

2年間滞在したClevelandは当時すでに100万都市で、お国自慢も多かった。「New Yorkを除けば東部各州で最も高い」というダウンタウンのCleveland Towerもその一つで、ある日、エレベーターで最上階まで昇ってみた。東京でもビルは10階ほどが最高だった頃だから、その50階以上はあったと思われる高所からの展望は素晴らしく驚かされた。

展望台の隅に土産物の店があり、何か記念になるものをと探すと、安いものはその底裏に見事なほどみな「メイド イン ジャパン」と書いてある。なおも探すと、長さ5cmくらいの金メッキ針金のベンチに腰掛けた、可愛い男の子と女の子のエンジェルが軽く口づけをしている陶器をみつけた。 店の人に飾りかと訊くとSalt and pepper を入れて置くものだと教えてくれた。そのような調味料セットは当時の日本には全くなく、これはアメリカでしか買えないとその底裏も見ずに大枚5ドルほどをはたいて買って帰り部屋に飾っていた。

その次の年の夏に、友人の車でナイアガラの滝を見に行った。そこでも沢山の土産品店があり、ナイアガラの滝を描いたナプキンやスプーンなど、これこそナイアガラにしかないとばかり喜んで買って友人の車に戻った。すると、彼が「よく見てご覧」という。確かめるといずれにも「メイド イン ジャパン」とある。確かにアメリカ製にしては安いと思ったが、日本国内では売らない輸出専用品があることはそのときに初めて知った。でも日本では買えないのだからと納得することにしてクリーブランドへ戻った。机の上のkissing angel を見てまさかと思いながらその底裏を見るとなんとそこにも「メイド イン ジャパン」とあった。それ以来、買い物をする前にどこ製かと品物の底裏を見ることが癖になった。

そんなある日、アメリカの友人が日本も自動車が作れるのかと失礼な言なので、”Sure, we have already TOYOPET” というと、”Oh, miniature model car, good naming”という。「違う実用の車だ」と何回か問答しているうちに、彼がとトヨペットの字をToy-O-pet と読み、Toy と Pet をご丁寧にも O で結んであるのでてっきり玩具だと思ったという。現在ではハイブリッドなどの技術力を世界に誇るToyotaも当時は残念ながらそれくらいにしか評価されていなかったのだ。

その後1968年にSalt Lake City 近郊の世界的に有名な銅山を見に行った。その頃には日本経済も急速に発展し始めて、「メイド イン ジャパン」も安物というイメージは少なくなっていた。そこの土産店で日本では見たことのない銅製の精密な可愛いランプの飾りをみつけた。まさかと思ったが底裏を見るとそれも日本製だった。そのときには、さすがに器用で精密な日本製だと感じながら買ったことを覚えている。

その少し後、1972年に訪米した頃には日本も先進国の仲間に入りかけ、お土産に持参したソニー製の薄べったいポケットラジオは大好評だった。いまほどではないが「メイド イン ジャパン」は小さいが品質に優れ値段もそれなりのものとの評価が定着し始めているのを感じて嬉しかった。

最初に訪米してから15年の間に「メイドインジャパン」の世界でのイメージは大きく変わり現在に到っているのは喜ばしい限りだ。これからも、それが「高品質で適切な価格品」の代名詞であり続けることを願っている。

 

21 レイディズ ファースト

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-12-07 を一部加筆修正

“Ladies First” という言葉は、男女同権のいまの世の中では余り耳にしなくなった。しかし、戦後しばらくの日本ではそれは横行した。それには学ぶ点もあったが、日本旧来の習慣とは違い、ましてや九州生まれで小学生時代を「男女7歳にして席を同じうせず」と教わってきた私には、その形式的な面では違和感を抱いていた。しかし、1958年にアメリカ留学して、それがその当時までの彼らの日常生活で習性として根付いていたことを実感し、それを心情的には理解できたが、同時に戸惑いもした。

それを最初に實体験したのは、ボンド夫妻の家に彼らの車で招かれたときのことだ。 Mr. Bondは家の前で車を駐めるとすぐに降りて車の前を回る。何事かと思ったらミセスのために外から車のドアを開けまた自分の席に戻って車庫入れをした。そのときは少し不思議に思った程度だったが毎回そうであり、他の人の場合も車では男性が女性のドアを開けに降りるのが多いことに気づいた。そこで、日本で行えば気障っぽいが、これも彼の地の etiquette だろうと、努めてさっと降りて女性側のドアを開けるようにした。

一年後の私たちの結婚に際し親身に世話してくれたボンド夫妻から「この前、テレビで日本の Emperor の数歩後方に Empress が続いて歩いていられるのを見て東洋的だと思ったが、同じように Motoko もYoshi の少し後を歩いていたね。」といわれたことがある。そういわれれば、話ながら歩くとき以外は私が先行することが多いのに気づき、家内からもそういわれて、以降は意識して並んで歩くようにした。これはかなり納得できた。

それからしばらくして、今度は家内から「Ricky Bond はまだ10歳そこそこの少年なのに、私とスーパーに一緒に行くと、道を曲がるときなどすぐ自然に自分の歩く位置を変え常に Ricky が車道側に回ってエスコートしてくれる。それが無意識にできるのは、男の子の幼児からのしつけなのだろう。ここではそれが慣習のようだし、あなたにとっては付け焼き刃だろうが、この国での滞在期間だけでもそのように努力したら—」といわれた。「大人になって急に変えろといわれても—-」と努力はしたものの、20歳代後半ではすでに遅く、これは私が気づかず家内が位置を変えることがしばしばだった。

その他、“Ladies First”では種々と失敗談もあるが、その最たるものは,家内とオフィスビルの途中階から最上階にエレベーターで上ったときのことだ。 当時のゼントルマンの通例で何人かはソフト帽をかぶっていた。乗るときに気づくべきであったが、その中には女性はいなかった。我々二人が乗ると、着帽の男性が、昔の洋画に出てくるように、一斉に頭上のソフトを右手でとり胸の前で留めるのにまず驚いた。最上階では誰も降りようとする気配がない。そこでドアの前にいた私が降りると家内が続き、それに続いて皆が出てくる。雰囲気が何となく変だなと思った途端、家内が私に日本語で「男性は皆、女性である私が降りるのを待っていたのに、あなたが私より先にさっさと降りるので大変恥ずかしかった」とささやいた。それ以降、留意して見ると女性が奥の方にいる場合は男性が隙間を作り女性を降ろして男性が出るのに気づいた。以降はエレベーターに乗るときには、女性の存在有無に注意を払うようになった。これぞ字句通り“Ladies First”だった。

でも、“Ladies First”の意味するところを実感したのは次のできごとである。修士論文が承認され、40社余りのスポンサー会社に報告すべく60部ほどの論文を大学構内で印刷し自分の研究室に運ぶことになった。同室の友人に手伝いを頼んだが、すぐには動いてくれない。それではと、私が10冊ほど、家内が数冊を持って何往復かしようと運び始めると、部屋の窓から私たちを見つけた友人3人が、大声で ”wait !”と叫びながら走って来る。「何事か」と立ち止まると、彼らは口々に「レディにそんな重いものを運ばせるなんて」と私に文句をいう。こちらにすれば、「すぐ手伝ってくれなかったのでワイフに頼んだのに—。」と思ったが、そこで、彼らにとっての認識は 「”Wife” であるより ”Lady”であることが優先しているのだ」ということに気づいた。先のエレベーターのときもそうだったのだ。このとき、改めて “Ladies First”なる言葉の意味を実感させられた。

この50年余りで日本では男性と比しての女性の地位が高まり、アメリカでも女性の進出で女性を大事にしすぎる ”Lady First”もそれほど過度ではなく男女同権になったし帽子をかぶる習慣も大きく変わって、いまの若い日本人がアメリカに行っても、私が感じたほどのことはないだろう。

 

22 日系一世の人たちと望郷の念  

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-02-21 を一部加筆修正

 

留学二年目(1960年)の春に、留学生の世話団体の人から「クリーブランド近郊在住の一世の人たちが、毎年ワシントンまでバスを仕立てて桜見に行っている。最初のうちはバス2台で満員だったが毎年亡くなる人が出て前年は一台になり、それでも空席ができた。そこで前年は日系二世の何人かを同乗さたが、彼らはメンタルに全くの米人で面白くなく、そこで日本からの留学生の同乗を思いついた。それで一緒に行ってもらえるか」との話があった。私の修士論文の目処も立ち、留学中の家内とその留学生の友人との3人で参加した。

戦前に渡米した日系一世の人たちは私の親達と同年代か少し年長の七、八十歳代で、近郊とはいえ100km四方ほどに散住し、日頃はできない交友を暖める場でもあったようだ。また、必要に迫られて話す幾分不自由な英語でなく、母国語である日本語のしかも各地の方言で気ままに気兼ねなく昔話などを話せるのは日頃のストレス解消に役立っているようで、往路はお互い近況報告や昔の思い出話などで賑やかだった。私達も適宜に別々の空いた席を回ってはそれらの話を聞いた。多くに共通した話は,「戦前に苦労して経済的に見通しが立ち子どもも育ってやっと一息つける状態になったときに思いがけない戦争が始まった。そして、敵国人として強制的に隔離キャンプ生活をさせられた。戦後そこから解放されて新生活が始まってまた苦労をし、いまはどうやらリタイアできた。子どもの二世達はアメリカの教育を受け、日本語は余り話さなせないし考え方も違って嬉しいような寂しい気がする」ということであった。私達に苦労話をすることで気持ちが少し明るくなる様子がみえ、若干知ってはいたが強制キャンプ生活などを生々しく伺い知ることができた。

このようにして夕方遅くワシントンへ着きホテルで一泊した。翌朝は早くから Potomac河畔の日本から贈られたという満開の桜の花をバスの車窓から眺めながら、皆がそれぞれの故郷での桜見を思い出しては日本酒を飲み、各自持参の花見弁当を食べておられた様子は忘れられないひとときであった。それから帰路の12時間ほどのバスの中は、皆が花見の満足感と花見酒で良い気分になり、最初のうちは故郷の民謡などで楽しんでいられたが、一巡すると「若い留学生さんたち、何か歌って」ということになった。

そこで、浦島太郎、猿蟹合戦、桃太郎、舌切り雀、花咲か爺さん等々と思い出す限りを歌うと、皆さんが「久しぶりにこんな懐かしい歌を聴いた」と涙ぐんで一緒に歌い始められた。それが一通り済んでもまだ物足りなそうなので、私達が子どもの戦前や戦中に歌った「鳩ぽっぽ」「お手々つないで」などの小学唱歌や童謡を、次から次からへと一生懸命に思い出し歌うと、一世のおじいさん、おばあさん達も「こんな歌は子どもの時歌ったきりで、四・五十年の間一回も歌っていなかったのに、不思議なことに、歌詞も節も次々思い出せたのには驚いた。同時に、忘れていた子どもの頃のことが、まわりの風景と共に思い出されて本当に懐かしく嬉しい」と帰路の間中、声も枯れんとばかりに一緒に歌い続けられた。私達も記憶の中から絞り出しては一緒に歌いに歌った。その時の一世のおじいさん、おばあさんのすっかり子どもに返ったような嬉しそうな顔に、ご一緒して良かったとつくづく思った。

私自身が同じ年齢に達したいま、長い間、故郷から遠く離れ「苦労をして身を立て自分の故郷に一度は戻りたい」と思いながら戦争でその多くを失い、いまと違って簡単に故郷にも帰ることできなく、あの地で亡くなった一世の人たちの望郷の念はいかばかりだったかと、当時にましていま胸に迫ってくる

 

23 クリーブランド(オハイオ州)の冬

http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-10-13 を一部加筆修正

 

クリーブランドの思い出は数多くあるが、なかでもその冬の寒さは忘れがたい。九州生まれで、それまでの生活の北限が東京だったのでとくにそう感じたのだろう。11月を過ぎるとエリー湖からの冷たい風で日中でも零度以下となり、バス停を待つとき寒いと言うより腿やすねなどがチクチク痛かったのを思い出す。夜間は氷点下10度以下になったことも再々だった。

入学した9月から2か月余りの借り部屋生活の後、10月下旬に日本からN教授がフルブライト交換研究員として私と同じ研究室にみえた。それを機に、大学まで徒歩10分ほどの 2DK のアパートを、街のメイン通りである Euclid Avenue との交差点に接したビルの3階に見つけた。便利な割りに家賃が安い理由が分かったのは引っ越したその当日だった。夕刻に交通量が増え、信号が変わる度にすさまじくエンジンを噴かす発進音と停車時のブレーキ音が夜も続く。数日で二人とも睡眠不足となり再転居を考え始めたが、不思議にも一週間を過ぎるとその騒音も余り気にならなくなってきた。そのようなある夜半、「いつもとは何かが違う」と目が覚めたが、それは「物音一つしない静寂の不気味さ」だとすぐに気付いた。隣室のN先生も「何か変だと思ったら靜か過ぎる。どうしたのだろう」と起きてみえた。見下ろすと急な積雪らしく、車が一台も通らない道路では、市の作業車のみが岩塩を撒き氷結を溶かしている。理由がわかり寝室に戻って少しすると、次第に始まった騒音が子守歌のように聞こえ眠っていた。「騒音も慣れれば、それが聞こえないとストレスになる」ことに気付き二人して驚いた。

その朝の登校は、除雪されたとは言え滑らぬよう歩くのは大変だったが、友人に、冬のクリーブランドでは “Over Shoes” が必需品であることを教わった。それは、日本では見かけないファスナー付きの半長ゴム靴で通常履く靴の上に、Over の文字通り、すっぽりかぶせて履くものだ。玄関で靴を脱ぐ習慣がないので、雪解けで地面が濡れると、それを家の入り口で脱ぎ隅に置いて居間に入ることになる。早速購入し、滑り止めにもなって冬中の歩行で愛用した。

翌年秋に、留学して来た婚約者と結婚し、それぞれが徒歩で通える上述の交差点に近いアパートへ越した。当時はまだ人種差別が激しく、生活に便利な旧市内地域の比較的裕福な白人は東部の郊外へと引っ越し、その後にアフリカン系の低所得層が移り住み始めていた。その境界がアパート近くにまで迫っていた。「オリエンタルの学生夫婦が入居希望だが承認するか」とアパート内住居者全員の了承が必要だったと入居後に聞いた。

そのアパート生活は便利で、すぐに始まった真冬も寒い徒歩ではあったが、通学のほか週一回の、当時の日本にはまだなかったスーパーでの買い物は楽しみだった。寒風に吹かれて帰宅すると、建物全体が暖房されたアパートの入り口でまず “Over shoes” を脱ぎ、日本流に靴を家の中ではスリッパに履き替え、冬中を半袖で快適に過ごせた。入浴後に窓を開けて寒気に当たるのはとりわけ心地よく、ついでに濡れタオルをヒョイト外に出すと、すぐにピンと棒状に凍るのには驚かされた。また、空気も冬はとくにひどく乾燥し、ドアのノブに触る前に必ずそっと爪を当てて静電気をパチッと飛ばすのが癖になったほどだ。

その後クリーブランドを再三訪ねたが、そのたびに市街は寂しくなっていた。1974年に家族で訪ねたとき、以前住んでいた近辺は低所得者層居住地となって歩くのは危険と告げられたが、2009 年に金婚記念で50年前に結婚式を挙げた大聖堂を訪ねた際、バスで通ったその付近の旧市内一帯では家屋が一掃されていて広場となるドーナッツ現象が実感された。

今回改めてウェブで調べると、クリーブランドは私たちが住んでいた1960年を境に、100万人の工業都市から凋落が始まり、いまでは人口40万人弱の惨めな都市になったと言う。

私の記憶のなかでは、いまも雪景色の美しい豊かな街であり続けるのだが—–。

 

24 「米国政府全額支給フルブライト留学体験とその後の人生」 井上 義祐

「フルブライト’58 四十年の歩み」1999年7月の発刊の記念誌より転載)

(フルブライトで一緒に留学した仲間で出版した記念誌へ1999年5月投稿原稿 一部修正)

 

留学したのは,大学を出て就職後三年目で,就職という私の人生の大きな路線は決まった後であった。それでも,留学は以下に述べるようにその後の私の人生を大きく変えた。

留学の目的は,当時最先端の技術分野でその発祥の地であるアメリカの大学院で自動制御工学を学ぶことで,帰国後は会社の研究所に戻るつもりであった。二年目は会社からの留学生となり,婚約中の家内も交換留学生として来たので、向こうで結婚した。修士論文は「バッチ加熱炉の最適制御」でコンピュータを使用しようと、その中間報告を会社に送ったところ、IBM7070という世界最新のコンピュータを導入するが、プログラムできる人がいないのでそれも勉強して帰ったら一年ほどはその業務に従事するように」と言うことで会社支給の留学生になった。

IBM社での実習で一ヶ月滞米を延ばし帰国すると、給与計算のプログラミングが待っていた。それが済んで研究に戻ろうと思ったところ「給与計算だけでは高価な計算機(一ヶ月の借り賃が当時の300人分の給料に匹敵)が遊んでいるので何か有効な利用法を考えるように」という。結局、生産管理をいまの言葉でいえば人工知能的に使うことに成功した。そのあたりで設備・計器対象よりは人間対象の計算機利用が効果も大きいし,面白いと思い始め,技術分野から事務分野に社内での路線を変更した。1964年頃には各大学で自動制御のコース増設があり幾つか大学からの誘いもあったが,会社での仕事を採ることにした。Berkeley の Executive Program に派遣された後,社長室で経営計画に参画し年度経営計画立案を通してそのシステム化などに取り組んだ。その実施の翌年,君津製鐵所で鉄鋼業では世界で初めてのオンライン生産管理システムを企画・設計することになった。その後,当時流行となった全社 MIS (Management Information System)の企画や,冨士鐵との合併による新日鐵の誕生に対応したオーダー・エントリー・システムの開発に取り組んだ。

1972年から三年ほどは,君津製鐵所の技術移転ということでイタリア最南端にある製鉄所の生産経営管理システム面での技術支援の団長として駐在し、おかげでイタリア語も少し話せるようになった。氷川丸で一緒だった武井敦さんと偶然その地で出会ったのも思い出である。

その後、日本鉄鋼業も成熟期を迎え社内では大きな仕事は望めなくなったので、ベルギー・中国(宝山)・韓国・などへの技術支援の企画などをした後、我々が先生として学んだアメリカの製鉄所への管理システム面での技術支援なども経験し、その前後に君津製鉄所への転勤や本社へ戻るなどして大型プロジェクトの管理を行った。

1987年に大学への転職の誘いがあった。大学へ戻ることは、1964年時点の自動制御関連の研究を諦めたことで縁がなくなったと思っていたが、今回は思いがけない経営学部でのシステム教育の担当という。 思い切って早期退職し大学へ移る決心をした。文系の研究や論文書きは新しい経験であった。 1991年から半年は Claremont Graduate School で研修の機会があり、Peter Drucker 教授に公私ともに接することができたことは良い経験であった。そのようなことで、この大学で経営管理や経営情報システムの研究と若い学生相手の生活が十年あまり続いている。十年目で、やっと大学へ移った時以来まとめたいと思っていた日本鉄鋼業の経営情報システムについての本が4月には出版できた。二年間の経営学部長の役職もこの3月で済み、ここでのあと五年の任期を有意義に過ごしたいと思う。

このように振り返ると、フルブライターとして留学した経験はそこで学んだ広義のシステム工学的思考法、語学力、異文化との接し方など、私が次々と会社での新しい仕事を見つけ遂行する上で不可欠であったと思う。また一年留学を延長して MS (工学修士)を修得したことは、社内では制度上は入社時の学士扱いで変わらなかったが、外国での仕事や大学へ移るときには役だったと思う。留学中に世話になった多くの人とも文通が続いているが、亡くなった人も多くなり寂しくなった。

 

25 留学後55年を振り返って

早稲田大学機械科のクラス会での報告「機械科で学んだことと異種な二つの人生経験」

2014年11月  井上義祐 を一部加筆修正

 

私達機械科同級生の活躍時期が日本経済の急成長とその後の海外進出の時期と一致したのは全く幸運だった。その間テレビや新聞に各分野で大活躍の同級生の名前を見たのも再々で励まされた。私はその時期を鉄鋼業で過ごし、機械科で学んだことを基礎に入社後3年目にフルブライト全額支給留学生として、米国でも揺籃期のコンピュータとシステム工学を学び、帰国後はその活用で八幡製鐵所での生産計画、本社での全社年度計画、合併後の新日鐵君津製鐵所での世界最初のオンライン生産管理開発、米・伊や中国での管理技術指導と常に新分野の仕事に恵まれた。

経済が安定成長期に入り、54歳で早期退職して全く異種の人生を始めた。無用だった M.S. (工学修士号)が役立ち関西の大学の経営学部へ移った。研究と授業とに専念のつもりが大学運営の仕事も結構あるのは意外だった。当時の大学教員は研究一筋が多く実務経験者は私だけだった。初年は主要経営学説の読書に没頭し、2年目からの研究と論文作成では、同僚は経営実務的な研究テーマの発掘調査に苦労したが、私は工学分野とは違う経営学の体系的な研究と記述作法面で苦労をした。毎年の論文記述に加え、どうにか10年をかけて先輩や同僚と共に苦労した鉄鋼生産管理の体系と実際を学術書として出版できた。教育では2年連続で個人指導ができた卒論ゼミに力を入れ、退職後のいまも14年間にわたるゼミ卒業生が毎秋開く合同のゼミ会でいまも40人近くと再会できるのは教員冥利に尽きる。その後2002年に別のプール学院大学の学長を4年任期で委嘱され、またその立場上必要に迫られて経営学博士の学位を東北大学から得るなどして74歳直前に引退した。

その後の2年間の旅行など息抜きの後、大学で書き残した海外技術指導や会社でのシステムの仕事の個人的な体験を、社史など公刊資料と対比しまた機密保持には留意し、研究資料として3編にまとめ大学論集に掲載できた。体験の公的性格の記録にはサラリーマンの立場では逡巡されたが研究者の立場で敢えて記述した。それは公表されている実務記述が自動車産業以外には余りも少なくなく経営史の一研究者として資料探しに苦労したからだ。

さしたる業績もなく企業で31年、大学で19年合計計50年に二つの異なった人生体験が無事勤まったのは友人たちと共に青春期を機械科で遊び学べたからだと思い感謝に耐えない。

 

① 井上義祐「生産経営管理と情報システム-日本鉄鋼業における展開」同文舘 平成10年

(生産方式に関する社会・経済学的な日欧米比較の自動車産業を主対象とした研究書は多いが、1980年代には世界最強となった日本鉄鋼業の生産方式、とくにその経営管理的側面の研究書はほとんどない。本書はそれを主題としてシステム論をベースに経営管理を「管理階層別業務プロセス」として認識するマトリックスの枠組みを用い、1980年代の日本鉄鋼業における「生産経営管理システム」の「仕組みと特徴」を、文献に基づき、著者の31年にわたる鉄鋼業でのシステム構築と海外コンサルティング経験の知見も加え、専門書として形式知的にまとめた。併せてその背景となる日本鉄鋼業とその情報システムの発展過程を述べた。-A5判、250頁- これを主論文として2004年に東北大より経営学博士取得)

② 井上義祐「Ⅱ 宝山製鉄所への技術 協力-中断されたオンライン生産管理技」平成20年3月大阪市立大学経済研究会2008年3月10日発行〔特集〕「東アジア重工業調査報告特集『季刊経済研究』第 30巻第4号 平成16年度~平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(B))(16402016)研究成果報告書の報告内容をまとめ直したもので,新日鐵が宝山製鉄所へオンラインコンピュータを用いた一貫生産管理システムの技術協力の契約に至る困難を極めた経緯とその中国側からの一方的な契約破棄により中断に至った経緯を中心に公刊資料としては初めて筆者の体験と資料に基づいて記録されたものである。 )

③ 井上義祐「八幡製鐵・新日本製鐵の1956年から1980年にいたるシステム思考の適用とコンピュータ活用に関する一実践側面(1)」『桃山学院大学経済経営論集』第51巻第3・4合併号2010年3月(1956年から1970年までの八幡製鐵における標題の活動について会社の発展時期に即して八幡製鐵所における生産管理、本社全社年度経営計画、君津製鐵所のオンライン生産管理など筆者が体験した一実践側面を社史棟の資料に触れながら論述した。(B5版61頁))

④ 井上義祐「八幡製鐵・新日本製鐵の1956年から1980年にいたるシステム思考の適用とコンピュータ活用に関する一実践側面(2)」『桃山学院大学経済経営論集』第52巻第1号 2010年6月、(1970年以降1987年までの新日鐵のシステム部門における合併対応、イタリアへのシステム技術協力の実践、欧州・米国への技術協力、中国宝山システムの企画アプローチ、本社の開発技術統一努力など筆者が体験した一実践側面を社史棟の資料に触れながら論述した。(B5版)49頁)

 

仕事に関する主要な記述は下記の drobox、私的な書き物はブログに公表し収録編集しつつある

Dropbox: https://www.dropbox.com/sh/7nr4vt80cmh4x3j/7fag6wwjfS

Blog: http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/

 

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