著作と論文、ブログの2017年以降、エッセイなどを纏めました

くるま関連の話

くるま関連のはなし

1.スクーターの免許取得【くるま関連のはなし-1-】.. 1

2.自動三輪車の免許証取得のはなし 【くるま関連のはなし-2-】… 2

3.スバル360の入手 【くるまのはなし-3-】.. 3

4.スバル360の使い勝手 【くるまのはなし-4-】.. 4

5.スバルでドライブの失敗談【くるま関連のはなし-5-】… 5

6.二人の大男とスバル360【くるま関連のはなし-6-】 [くるま関連のはなし]. 6

7.私のくるま遍歴【くるま関連の話-7-】… 8

 

 

1.スクーターの免許取得【くるま関連のはなし-1-】

米国留学期間は、人の車に乗せて貰いあちこちと移動した。2年目の夏休みにナイアガラを通りカナダのケベックまで千数百kmも行ったりもした。帰国後に車が欲しくなったが、車は1960年頃の年収の数倍以上はする高嶺の花で、中古スクーターなら何とかなりそうに思えた。それには、まずは免許が必要だ。自動二輪の実技は自転車と同じことだと多寡をくくっていきなり試験場へ行ってみた。十人くらいの受験者を前に試験官から、コースと注意点の簡単な説明と80点以上が合格ラインだと知らされて、すぐに実技試験が始まった。私の順番は幸運にも最後だったので、前の人達の実技検査の間中受験者になったつもりで「ここは一時停止、ここでは右(左)腕を上げる(当時ウィンカーは珍しかったので)、ここではスピードを出す」などと、試験官の横の方で受験者に合わせて身振り手振り宜しく身体に覚え込ませた。そ間、私以前の受験者の合否を自分なりにその基準で判断すると大方は的中した。そこで、「いま身体が覚えたとおりにやれば通ると」自己暗示をかけた。これは高校時代に器械体操部で大車輪など回る前などによく使って成功した手だ。

最後に私の番が回って来た。練習したとおりに身体が動いて試験場を一周し、「これで通った」と思いながら試験官の顔を見た。後で考えると、試験官は私が横で手振り身ぶり真似していたのを見ていて、余り快く思っていなかったも知れない。試験官は私の顔を見て「直前の練習の甲斐あり動作はほぼ規則通りには行けたが、スピードは自転車並みなので残念ながら今回は駄目だね」といった。そしてやおら、採点表に「ここでマイナス2点・・・」と、いちいち説明しながら減点箇所を記述し終え「最後にスピードで10点減点と」と書き込んで、「サァー、総合点数は」と意地悪っぽく減点を全部足しながら、「ほらね、合計点が合格点にならず落第だろう、残念でした…? ン?変だな、全部減点すると78点で落第の筈だが」という。点数を見ると80点だ。試験官は再度にわたり減点を繰り返したが、結果はどうしても80点となる。「変だナー、・・・。アッ、ここでの減点を見逃していた」と急ぎ書き加えようとした。それを見て、私は「それはないでしょう、一度記入が終わった公文書の改ざんですか?」と異議を唱えた。試験官は私の顔を見つめながら「記入を終えたいまにそう言われればそうだな。でも言っておくが君の運転はどう見ても自転車のスピードで原付き二輪車のではなかったぞ。計算ミスでこういう点数になってしまったが」とまだ残念そうな風情である。私は「シメタ」とばかり「分かりました。市中で運転するときにはいまよりウンとスピードを出します」と答えた。試験官の「通すことにはなるが、かといってスピードは出し過ぎないように」と慌てて言ったのを聞きながら、「ハイ分かりました」と答え無事なんとか一回で免許証が手に入った。

次は手中古のスクーターを見つけることである。幸い知人から紹介され、「ローマの休日」のような素敵なスタイルには感動したが乗ると力が出ない。でも値段からしてそんなものかと買うことにした。さて、次の日曜日、教会帰りに家内を後ろに乗せて若松へ出かけた。まだ若戸大橋が架かっていず、黒崎を回っての結構な距離だった。何とか行けたが、坂道を上ると、エンジンの焼ける臭いがして慌てて降りて押し何とか丘の上までたどり着いた。半年もしないうちに気息奄々のエンジンに愛想が尽き、買値の数分一の安値で友人に引き取って貰い高価な経験となった。

 

2.自動三輪車の免許証取得のはなし 【くるま関連のはなし-2-】

スクーターを売却したら郊外に行きたくなった。その頃、所得倍増計画が発表され経済は急成長期に入って皆の生活にも少し希望が見え始めた。軽自動車もその波に乗り、値段はまだ年収以上だったが40万円を大きく割り街でちらほら見かけ始め、なんとか買えそうとの展望が開け始めた。ともあれ運転免許だけは取っておこうと思った矢先の1961年春に、大型コンピュータが入り、プログラミングとテストのためにタイミング良く夜勤となり、会社を休まずに昼間の自動車教習所に通えるようになった。「チャンス逃すべからず」と教習所へ行こうと決めた。

当時、少し景気の良い魚屋さんや八百屋さんの仕入れや配達には、後ろに四角の荷台が付いた自転車型ハンドルの自動三輪車が使われていた。自動車教習所に行って調べると、丸ハンドル操作の必要な軽自動車免許は1ヶ月近く通う必要がある。しかし自動三輪車免許はハンドル操作が自転車と同じで、旨く行けば2週間でとれて講習料も安く、しかもそれで軽自動車も乗れるという。その免許をとろうと2週間分の実技だけの講習料を払った。

教習所では2週間先の受験を目標に10人ぐらいが一緒のクラスだった。ほとんど20歳前の若者で、「今朝出がけに社長から頑張って早ヨウ合格センバと言われタッサ」「おい(俺)もそうバイ」など九州弁が聞こえる。「若いのに社長から言葉をかけられるなんてすごい」と思ったら「免許バとったら仕入れに行かれるトバイ」という魚屋の兄ちゃんだった。

実技は三輪トラックの後部荷台に5人ずつ乗り、先生がまず自分でコースを一まわりして注意事項を教えることから始まった。この免許を選んだ主な理由はハンドル操作が自転車と同じで容易なことだが、問題は、いまの自動変速と違いクラッチ、それもダブルクラッチでの変速で、これは予想以上に難しかった。ダブルクラッチで変速するには、まず左ペダルを踏み込んでいる間にシフトレバーをニュートラルに入れてエンジンを車軸から切り離した後クラッチ踏み込みを戻す。その間に右ペダルのアクセルを徐々に踏み込んでエンジンの回転数を上げ、頃合いを見てクラッチを踏み込み、シフトを一つ早い位置に動かしクラッチを戻すと言うものだ。これがなかなか難しく、タイミングや回転数が合わないとギヤがガリガリ言うし、下手をするとエンストする。これに余分な気を取られると方向指示器を出しそびれる。出発時、信号待ちなどの度にそのクラッチ切り換えを低速から中速、高速と方向変換の信号を出し忘れないように注意しながら行うのは思ったよりも大変だ。方向変換や停止などは少し前に受けた2輪車の試験の経験が役立って余り苦労はしなかった。どうやら様になるのに一週間ほどを要した。

1週目の終わり頃、先生が皆に「来週月曜日に試験がある。君たちより1週間早い入学者が受けるので、少し早めに来て実技試験のようすを見るように。それと合格は無理と思うが井上君には度胸試しの受験をして貰うので参考にするように」、そして私にこっそり「皆がびびっているので悪いけれど年長の君が本当は次回の試し受験なのだが一回余分に受けてくれ」と言った。

実技試験は信号や一時停止、方向転換などは自動二輪と同じで、それに車庫入れが加わった。そのバックも自転車の要領で何とかなると思い、クラッチ操作とそれに続くスピードアップに留意することにした。自分の前の番で、後の荷台に乗って試験の様子を見ながら、二輪車の時と同じくどこでどう操作するかを身体に刻み込んだ。試験ではクラッチ操作に留意し、何とかエンストもせず終了した。結果は驚いたことになんと合格だった。先生も私が通るのは予想外だったらしく「君にはもう一週間、一緒の若い人たちを元気づけて貰おうと思ったのに」と残念がっていた。筆記試験は法規と構造でこれは問題なく通って免許があっという間に取れた。そうなるともっと後で買うつもりだった車が急に欲しくなってきた。

 

3.スバル360の入手 【くるまのはなし-3-】

1960年に所得倍増が発表され、翌61年には八幡の街角でも軽自動車のスバル360とマツダクーペを時折みかけるようになり、価格も30~36万円台と年俸に近づいて来ていた。自動三輪の免許得時には車購入はまだ先だと思っていたが、いざ取得してみると急に車が欲しくなった。末っ子の故に長い間厄介をかけた両親と一緒に車で旅行するとか翌年夏に誕生予定の子どものことなどを口実にして、若年で身分不相応と思ったし経済的には少々苦しかったがなんとか早速購入しようスバルを選んだ。

車は予想外に早くきてしまったが、前述のように免許証は軽自動車より格が上の自動三輪車で取ったので、丸ハンドルには触ったこともなくそれが大変に不安だった。幸い近くに住んでいる会社の運転手さんが知り合いだったので頼んで側に座って貰い近所の広場で特訓を受けた。もちろんハンドシフトなのだが三輪車のダブルクラッチより簡単でこれは問題なかった。しかし、初体験の丸ハンドル操作は自転車と同じハンドル裁きは通用せずに苦労した。それでも前進は何とかなったがバックでの車庫入れは車の購入自体を後悔したほど難しかった。それも特訓で何とかできるようになり翌日から街中での初ドライブを敢行した。当時は走っている車が極めて少なかったがそれでも全くヒヤヒヤものだった。

車のエンジンは360ccで時速80kmくらいは出せたが、軽自動車の最高速度は40kmで規制されていた。しかし交通量が少なかったのでいまの運転より遙かに快適だった。最初のうちは同僚も怖がって乗らなかったが、半月もすると希望者が出て来て同乗して貰った。しかし、前開きの2ドアで後部座席に乗るのには窮屈でかがんで入る必要があり「乗るのに靴ベラが要る」と言う。それではと助手席にと乗せると今度は「地面を腹ばいになって行くようだ」とかいう口の悪い連中もいたが、結構皆喜んで乗っていた。

私も 大学では一応は機械工学を学んだので、車のメカや性能にも興味を持っていた。スバル360は旧中島飛行機のエンジニアが開発しただけあり、従来の車枠(フレーム)構造ではなくモノコック構造で400kg以下と軽く、独立4輪懸架のトーションバーで当時の悪路でも凹凸を良く吸収して乗り心地は当時としては良かった。エンジンは360ccの強制空冷2サイクル2気筒の後輪駆動であり、燃料は潤滑油混合ガソリンで満タンは18リットルで、全長4m弱、車幅1.3m、回転半径が4mと可愛い車だった。公称燃費は28km/lだが実際は20前後でエンジンの点火位置を自分で簡単に調整でき、調整してしばらくの間は22くらい走れた。しかし、安価にするためにガソリンメーターは付いてなく、いまの車の潤滑油タンクと同様に後部ガソリンタンク蓋に付着した棒の濡れ位置で燃料の残量を計測した。それとワイパーにかける水を出す装置はなく、当時の無舗装道路でトラックなどからの泥水をかぶって先が見えなくなるなど大変困ったこともある。それらは改めて紹介するとして、ともかく、値段に比してとても優れものだったと言うのが私の総合評価だ。

運転に関しては、当時住んでいた社宅から会社本事務所までは約10km弱あり、途中に、いまは20箇所くらいある信号機が1箇所しかなく20分もあれば充分行けた。しかし、それまでの無遅刻を全うするためにパンクした場合のタイヤ交換の実地試行結果15分も加算して始業40分前ほどに出ることにした。車通勤を始めて数日後に奥歯が痛くなったので何故だろうと思ったら、運転中に奥歯を食いしばっているのに気が付いた。それほど緊張していたのだろう。運転し始めて2週間目に入った頃だったか、八幡の方へ出かけたら、狭い道で前に三輪トラックが止まっている。その横をすっと行けたのだが、何故か一旦その後ろに停まった。すると運転手が横を通れと合図した。一瞬、前に乗りつけたスクーターと勘違いし、自分の左に車体があるのを忘れて発車したので、左のボンネットが前の車の荷台下に入りクシャッと凹んでしまった。運転手は「何をしているの?」と首を傾げるし、折角の新車は半月もしないうちに傷ついてしまった。以降はこのような衝突?事故もなく、親孝行の旅行もできて、今日まで50年間何とか無事故で来られたことには感謝するほかない。

 

4.スバル360の使い勝手 【くるまのはなし-4-】

1961年当時のこの車への満足度は、異質ではあるが、いま乗っているプリウスのそれと匹敵するほどだった。というのも、機械工学を学んで5年しか経っていなかった私は、次のような点に感銘を受けたからだ。すなわち、車体は、従来使われていた0.8ミリ厚の鋼薄板から、見るからにペコペコの0.6ミリ厚の鋼板に丸みを付す造形で強度を持たせた車枠のないモノコック構造とし、ルーフ材にはプラスティックを用いるなどで総重量385kgに納め、当時としては画期的な360ccの2気筒2サイクル空冷エンジンに、足回りは独立懸架サスペンションを採用し、車長3.6m、車幅1.2m、回転半径4mの小さいが悪路に耐える乗り心地を実現し、しかも何とか手の届きそうな値段に仕上げる設計だった点である。

でも、それなりの使い勝手の悪さが幾つかありそれに対処する工夫も必要だった。一つは燃料まわりのことである。燃料はガソリンと潤滑油の混合油でどこのスタンドでも売っていたので間違いなく指定さえすれば問題はなかった。しかし、メーターは速度計と積算距離計だけでガソリン表示計がなく確かに不便だった。それは安価に納めるための機構に理由もあったのだろう。ガソリンをエンジンに送るのにポンプではなくタンクの蓋に穴を開けてガソリンの重力による自然滴下方式をとっていた。したがってエンジンの始動前にシフトレバーの横の小さなガソリンレバーを一段だけ引っ張りタンクからのコックを開く必要があった。駐車の際にはエンジンを切った後でガソリンレバーを元の閉の位置に戻す(これを忘れるとガソリンが流れ落ちエンジンが掛かりにくく苦労する)。また、ガソリンメーターがないのでガス欠のエンストを生じる恐れがあり、その場合はレバーを2段目まで引くとそれから数km走るだけのタンク底部のガソリンが滴下される仕組みだった。ガソリン残量は停車している時にタンクに付着した棒状のゲージ目盛りのどこまで濡れているかでわかる仕組みだが、走行中には見られないのは不便だった。しかし、ゲージを走行前に確認することと、給油時に18リッターの満タンにしてその時の積算距離を記録し、それまでの平均燃費をかけた走行距離から次の給油時の走行距離を予測計算して、その距離になったら満タンにし走行距離を記録することで、少々面倒だが、慣れれば余り困ることなく対処できた。その癖でいまの4代目プリウスまで記録をとり続けている。エンジンは2サイクルで点火位置がずれやすく、しかもそれで燃費が大きく変わるので、調整方法を整備工場で習って自分で頻繁に調整しリッター当たり20km弱に保てたように記憶する。

次ぎに厄介だったのはワイパーに注水機能がなかったことだ。当時は舗装工事がまだ進んでいなくほとんどの道が凸凹だったが、それは優れもの独立懸架のバネで徐行さえすれば車底をこすることなく対処できた。でも、八幡から福岡に行く国道3号線は当時工事中の箇所が多く、雨降りにでも運転すると対面から来るトラックの前輪が水溜まりに入りできる泥水を、1.3mしかないスバルの低い車体に「バッシャ」と掛けられ、前が全く見えなくなる。そうなると注水装置のないワイパーを使うほどに泥が広がって益々見えなくなる。最初は仕方なく路肩に待避し雨の中を降りて窓を拭いては走った。しかし「窮すれば通ず」で、次の雨降りの時からは濡れ雑巾を10枚くらい用意し、前が見えなくなると左手でハンドルを持ちながら、右の窓を全開しそこから右半身を乗り出し右手で素早く次々と手にした濡れ雑巾で拭くという連続技で何とか乗り切ることにした。いまでは信じられないが、半身を乗り出してフロントガラスの半分が拭えるほど車が小さかったということだ。

2ドアの窓ガラスは、いまのような上下でなく前後のスライド式でドアの内下側がその分広く取れ合理的だった。もちろんエアコンなど論外で、夏はドアの窓を後方に引いて開け、フロントガラスとの間にある三角窓をグイと押し角度を調節すれば、塵埃も入るのを我慢すると、冷風が顔に直接当たって心地よかった。冬は空冷エンジンなので空冷後の暖まった空気を室内に出して何とか温まった。このようなことを思い出すと、いまの自動エアコン、ナビなどの完備した車と比べて50年しか経ってないのに隔世の感がする。

 

5.スバルでドライブの失敗談【くるま関連のはなし-5-】

末っ子の私には、父母と一緒のドライブも楽しみだった。スバル購入後すぐにプランを練り、父母の希望を入れ会社の療養所のる英彦山と別府に家族で一泊ずつすることにした。当時は道路事情も悪く遠出は大変だった。スバル360は軽自動車で、国道でも時速40km以下と制限があり、もどかしい感じの時もあったが快調だった。ガソリンメーターがなく、満タン18リットル時点の走行距離と、平均1リットル当たり20kmの計算で給油していた。このドライブは走行距離400kもなく満タンで途中一回給油くらいを考えていた。

初めての山道の運転に苦労しながら英彦山にたどり着き一泊した。翌日は山中の未舗装の道を、それでも紅葉を楽しみながら別府の温泉に着いた。温泉気分を味わい、早朝に両親の希望通り耶馬溪の紅葉に秋景色を満喫して青の洞門を通って帰ることにした。洞門入り口の前で車が30台ほど待っている。何かあるのかと右車線を行くと巡査が「ここは一方通行です。この車の列の最後尾まで戻るように」という。免許の取り立てで慣れないバックを始めたら後部座席の父が「ストップ!」と叫んだ。「グニャ」という感じで慌てて降りてみると、なんと軽のスバルは後部バンパーに少し傷があるだけなのに、丈夫そうな福岡ナンバーのルノーの前左フェンダーが凹んで車輪に当たっている。すると眼光鋭く鼻下に髭を蓄えた40代の男と、続いて屈強そうな若い男二人が車から降りてきた。男の胸には拳のバッジが付いている。その男がルノーのフェンダーに触るとポロッと下に落ちたのには驚き、また少しくおかしくもあった。でも、それは一瞬のこと。「もっと注意して運転せい。こんなに壊して。車はどうしてくれる」とすごむ。てっきり暴力団関係の親分で「大変な車にぶつかったものだ、これで福岡まで行って高い修繕代をぼられてはたまらない」と心配した。「八幡で勤めていて知り合いの修理店があるのでそこで修繕したい」というと「いや、福岡でやる」の一点張りで納得しない。両親が降りてきて「息子が親孝行で連れてきてくれた。この通り謝るので何とか八幡で」といい、どうやら納得した。

それから八幡への帰路、後ろから例のルノーがピタッと付いてくる。「大変な連中にぶっつかったものだ」といいながら、舗装してある国道での軽自動車40kmの制限速度を、気が急いて珍しく普通車並みの時速60kmで走った。もう数キロで大分と福岡の県境という時、「ストン」とエンジンが止まった。「まだ200km走るくらいはガソリンがある筈だが」といぶかっていると、くだんの男が「ガス欠じゃろー」と降りてきた。「予備ガソリンコックをひねると少しは走れるから」といってスタンドへと向かったが、すぐ手前で今度は完全にガス欠になった。

「おい、彼を乗せて、少し先のスタンドでガソリンを缶に入れてこい」とでいうと若い衆二人が「ハイ」と私をルノーに乗せた。「やっぱり暴力団員だ。大変なのにぶっつけたものだ」と後悔しながら、元の所まで戻ると、両親とくだんの男が何やら親しげに話し込んでいる。ガソリンを入れ走り出すと両親が「あの人たちは、福岡の警察署の交通係の人だ。若い二人の部下を連れ、友人の医者から車を借りて遊びに来ていたとのことで安心した」という。それで、「頑強そうな体つき、鋭い眼差し、胸の拳のバッジ」とすべて納得がいった。満タンにし、今度は40km遵守で走った。「それにしてもまだガソリンはある計算なのに」と考えていて「アッ」と気づいた。「リッター20km走行というのは、通勤での一人乗りの平坦な舗装道路でのこと。今回は四人の満席で、大変な山道の悪路をロウギアに入れて何回もどうにか登り切ったほどだ。360ccのエンジンでは,この悪条件が揃えば半分以下の燃費になっても無理はない」と納得がいった。「相手が警察と分かって安心した。それにしても、軽自動車のスバルは無傷で、ルノーが壊れるとはよほど旧い車なのだろう」などと両親との会話も明るくなった。八幡に着き見積もりさせ名刺を渡し深く謝ってどうやら許してもらえた。

そのボス警官が別れ際にニヤッと笑いながら私にいったものだ:「今日は休日なのに、軽自動車の時速20kmオーバーの現行犯逮捕ができると、大分から福岡の県境が来るのを若い衆と首を長くして待っていた。それだのに、残り2kmを切ってガス欠で止まった時にうかつにも身分を明かしたばっかりに、ようやく自分たちの縄張りになったと思ったのに、なんと、そこからは時速40kmを守られ捕まえ損ねて残念!」と。

 

6.二人の大男とスバル360【くるま関連のはなし-6-】 [くるま関連のはなし]

スバルに乗り慣れた頃、計測制御分野で有名だったTRW社と業務診断の契約が結ばれ、留学時代の知人 Dr. Tom. Stoutがその部下と二人で八幡に1週間滞在した。その通訳と応対は公私とも私が当たった。当時は外人が多く訪ねる大都市以外には洋式のホテルはなかった。小倉や八幡も例外ではなく、彼らには旅館に泊まって貰った。世界中で日本食が流行のいまでは信じ難いが、当時は刺身どころか醤油の臭いさえ嫌ったアメリカ人が多かった。そのなかで、目の虹彩が緑色、身長が 1,9m強はあろうかと言う北欧系の大男だった彼は好奇心旺盛で「在日中は日本人のように過ごしたい。生活習慣上で変な言動があれば遠慮なくその都度注意して欲しい」と何事にも積極的だった。寿司屋や銭湯にも連れだって行ったし、旅館では浴衣や日本酒に日本料理を喜んで楽しんでいた。

アメリカでは彼の大きな車でドライブして貰ったので、会社の外車(当時の言葉で外国製車)で近郊を案内しようと思っていた。しかし、エンジニアの彼は私が話題にした愛用車スバル360に格別の興味を示し、是非それに乗りたいと言う。問題は彼らの大男ぶりで、彼の部下も背丈は彼並みでしかも太っていた。私の第一の心配は、あの狭い車体に彼ら二人がその長い足で後部座席に入り込めるか、もし入れても窮屈ではないか、そして最大の心配は「大男二人と私を乗せて坂のある八幡の街中を走る馬力が充分あるか」だった。彼のたっての依頼を断り切れず試しに後部座席に乗せるだけはしてみようと思った。170cmもない会社の同僚すら「乗るには靴ベラが要る」とこぼしたほど乗り難く狭い後部座席へ、ドアを前方に開けて助手席の背もたれを前に倒し、まず、彼が身体を前に丸めたままその上を跨いで、どうにか後部座席に滑り込めた。二人目も同じように何とか入れた。見ると二人とも長い足を折り曲げ、膝が胸に付かんばかりだ。「窮屈だから降りる」と言うと思ったのに、彼は「乗れた」と喜び「是非ドライブをしよう」と言う。少し走れば「もう充分」と言うかと思いきや、スバル特有の独立懸架のトーションバーが良く効いたのか「思ったより乗り心地が良い」と褒める。言葉につられ、少し走ってみると目前にかなり急な長い坂道が展開している。「しまった、別の道を選ぶのだった」と思ったのも後の祭り。坂に到るまでトップギアで走り勢いを付け、坂を上り始めるとロウギアでアクセルを一杯に踏み込む。彼ら二人も初めは「フレーフレー」と車に応援をしていたが、坂の頂上が見える頃はエンジンが気息奄々(えんえん)で停まる寸前。混合油使用のエンジンは加熱で排ガスは黒煙濛(もう)々(もう)。大男二人は「降りて車を押そうか」と真顔になって言い始めたが、この場になってのそれはスバルの名折れだ。内心はエンストを怖れながらもスバルに「何とか登り切れ」と念じながらアクセルを踏み続ける。やっとナガーイ坂を登り詰めたときには、3人で思わず「ブラーボー」と歓声を上げた。それから郊外へ出てドライブを無事終えた。スバルを降りると折り曲げていた長い足を伸ばし背伸びをしながら、「とっても小さいが、見かけによらず力もありナイスカーだ」と大男二人から褒められたのは同じエンジニアとしてわがことのように嬉しかった。

彼らの質問に、スバルの設計と生産は戦争中に「隼(はやぶさ)」などの名戦闘機を製造した中島飛行機の後継会社の富士重工で、軽自動車の規格としてエンジン内容積が360cc以下で車幅や車長に制限があること。この車の特徴は空冷2気筒のエンジンに独立懸架の足回りであることを説明した。彼は戦争中に有名を馳せた「隼」と同じエンジニアの設計製作と言うことで充分納得したようだ。

また、彼は「必要は発明の母」で、エンジン容量を規制したのは賢明な策だ。イギリスでは規制がピストン直径だったので、同直径で大容量を得るのに規制なしの長ストロークと言う奇形のエンジンが流行(はや)ったと言う。「アメリカの車もスバルのように原点に戻り経済性や効率性に配慮すべきだ」とアメリカ車の大型化を批判していた。急成長を始めたばかりの1963年頃のスバル360 を起点に、それから30年もしないうちに日本の自動車産業がアメリカに肩を並べ追い抜くようになろうとはそのときには思いもよらなかった。

 

 

7.私のくるま遍歴【くるま関連の話-7-】

ブログのマイカテゴリ【くるまま関連の話】を書いて4年近く経ち今回のその後の遍歴でその幕を引きたい。(http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/archive/c2302381225-1

1963年頃はいまではそのいずれも想像もできないが、国道でも夜の対向の車は極めて少なく、またヘッドライトの電球も良く切れた。以下はその二つに絡んだ話である。山口県の光から友人と八幡への帰路、関門トンネル内で片方のライトが切れた。アップビームでは双方点灯しそれで走り続けた。小倉に近づき何台目かの遙か向こうからの対向車についライトをダウンにし、しまったとアップに戻した途端に交番の警官から「片目運転の整備不良だ」と切符を切られた。同乗の法科卒の友人と二人での事情説明で初めは納得気味だったがすでに切った以上罰金だと言う。こちらも納得せず結局はその切符を持って翌日本署に行くことになった。そこでは晴れて無罪となったが、現在では起きえない二重の出来事だろう。

その後東京転勤で、スバルの悪路運転を覚悟したが引っ越し荷物で輸送でき、多忙な仕事の合間の週末には高尾山など近郊のドライブが楽しめた。ハプニングもあった。正月早々なのに信号に入るタイミングが遅いと警官に免許証提示を求められ、「えっ!佐世保出身ですか。私もそうです。すると高校の後輩でもあります」との言に二人とも奇遇に驚いた。また、冬の郡山では雪に閉じ込められ停車のままでの空冷エンジンが過熱がし、それが冷め再起動できるまで待つ間じゅう震え上がったこともある。そんな愛車のスバルだったが子供が3人となり、1971年に自動三輪で有名だったダイハツが初めて発売する四輪車の5人乗りベルリーナに乗り換えた。モノコックの軽自動車と違い貨物車のような鉄枠フレーム方式の頑丈さが売り物のくるまで1トン近くあり安心して運転できたのは良いが、点火栓まわりが良く不調になり発火点を時々自分で磨く必要があった。

1972年の海外転勤でそれも手放し、以降は帰国後の東京や君津では車なしで済ませた。しかし1987年に関西の堺に転居し、久しぶりのドライブだったので中古車を買い、ついで以降トヨタのカローラのハンドシフトの新車に数回乗り換えた後、(ナント驚いた事に2006年のロンドンでの大きなレンタカー会社数社が全てハンドシフトしかないと言われ、その時の経験から何とかドライブはできたが)家内の要望で自動シフト車へと切り替えた。

1989年に世界初のハイブリッド車プリウスがトヨタから発売され、好奇心の強い私は発表後すぐに買い換えを頼んだが入手したのは6月だった。早速親類の結婚式に出るため珍しかったカーナビに長崎のホテル名を入れて走り始めた。高速道路の走行は予想以上に快適で1リッター20km以上も走り驚いた。念のため岡山のGSで給油したが、発売直後で珍しいプリウスだと気付いた店員の要望に、ボンネットを上げるとまわりの給油客も集まって「これがハイブリッドだ」としばし賑やかだった。

その後2001年に新車へ、2003年に2代目モデルのプリウスに乗り換えて、2006年の退職後はそれで何回にも分けて九州や四国・山陽・山陰・東北など家内と二人でドライブを楽しんだ。しかし、最後の旅行で青森の高速を下りたところをスピード違反でつかまりそれまでのゴールデン免許が終わった残念だった。

いまは住まいが駅前でくるまなしでも不便はないし、2014年の免許更新時に、少々淋しくは感じたが私の50年近くのくるま遍歴は無事故で終わることができて感謝している。

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