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1972~1975年の南イタリア体験記

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19721975年の南イタリア体験記   井上 義祐

 

 

    

はじめに

第1話 イタリアでの生活の始まり                     ―2

第2話 イタリア語のレッスン                        ―3

第3話 イタリアの小学校と子どもの教育                  ―4   

第4話 イタリア語とローマ字読み                        ―5

第5話 イタリア語を学んで良かったこと                  -7

第6話 生活の上で遭遇する単語                       -8

第7話 イタリア語と名古屋弁など                    -9

第8話 コンテッサ(公爵夫人)                        10

第9話 イタリア語と音楽                         11

10話 イタリアのワイナリ                        12

11話 油を使わない魚のフライ                      15 

12話 イタリアの南北での違い                      -16

13話 南イタリアの人たち                          -18

14話 サルデーニャ(Sardegna)でのバカンス               –-19

15話 ドブロウニクとGoldsmith                       -20

第16話 ドレミの由来                                     –22

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに  

第1話 イタリアでの生活の始まり

昭和47年(1972年)のことだったが、社命で十数名からなるコンサルタントグループの責任者として,家族同伴で南イタリアの人口30万人ほどの Taranto という市に赴任することになった。

私ともう一人だけは7月末に現地に赴き仕事の段取りを行い,9月にはグループメンバー全員を受け入れた。その後、住むべき家を探したり子供の学校を探したりの家族迎え入れの準備も進んだところで、11月に入り家族を呼び寄せた。

家族連れは4人だけで、あとの団員は1年弱の単身赴任で近くのホテルに住むことになった。今では変わったかも知れないが、当時もその市の近郊では中華料理店は勿論、日本料理店などは全くなかった。我々家族連れの役割の一つは、単身赴任の団員(多くは30代前半の掛長クラスの人たちだったが)を4人の家庭で日本食など日本的雰囲気のなかでもてなすこともあった。

団長としての私どもの家は、イタリアの会社の製鉄所長をはじめ幹部の人たちも招くということや、週に1~2回くらい単身赴任の団員にくつろいで貰うことなども考えて、日数をかけてそれなりの住まいを探し当てた。それは、11階建て水色のマンション6階にあり、南へ40メートルくらいの所から始まる綺麗な海 Mare Grande を遙かに展望できる、家具付きの立派な一軒だった。家内と娘三人の五人の家族構成には不相応に大きい70坪もあろうという間取りで、東京で住んでいた当時としては大きい部類であった4LDKの社宅の3軒分ほどはあった。日本では小学校4年生、3年生、幼稚園の年長組に行っていた子供たちは、大きな家へ入った途端、あちこちの部屋を走り回りながら「これが全部うちなの」と大喜びだった。

引っ越してまず困ったのは隣近所の人との会話だった。ゴミはどうするのかその他わからないことばかり。数日は会社のローマ事務所から応援に来た人に通訳を頼んだり、英語が話せるイタリアの会社の社員夫人に通訳して貰ったりしたが、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。また、子供たちの学校関連でもたちまち困った。この地方にはイタリアの小学校しかなく、子供たちを連れて近くの小学校を尋ねて行った。その小学校には英語が喋れる先生は一人しかいなくて、その人を通訳に子供を受け入れてくれるかどうかを訊ねた。いろいろ話した結果、子供たちはイタリア語が全くわからないのだから、イタリア語が上達するまでは上の5年生の子は3年生、下の二人は3年と翌春から1年だったが二人とも1年生のクラスに入れてくれることになった。子供たちには日本でローマ字程度は教えていたが、イタリア語は私たち夫婦にも未知のそこで初めて出会った言葉だった。

子供たちが初めて学校に行った日に「どうだった?」と聞くと、「お父さん、イタリア語ってローマ字と一緒だったよ」と大変な発見をしたように嬉しそうに答えた。「だからローマ字と言うんじゃないか」と云うと、「ああ、そういう訳か」と初めて納得した様子でおかしかった。子供の宿題を手伝おうにも、イタリア語を自己流で少々かじった程度では、不規則動詞の原形もわからず辞書の引きようもない。何とか早急にイタリア語が喋れるようにならないとどうにもならないと家族全員が一様に思っていた。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/   の2011-10-26 参照

 

第2話 イタリア語のレッスン

イタリアには1962年に欧州出張で出張の帰り道に3日ほど滞在したことはあったが、1971年にイタリアへ突然に同僚と二人で出張することになった時は会社とホテル以外では言葉で本当に困った。英語は2年のアメリカ留学で何とかなったが、私の大学での第二外国語はドイツ語で、ラテン系の言葉は学生時代に学びそびれて全く未知だった。最初の数日間ローマ事務所の人が付いてくれた時は良かったが、彼が急用で帰った日の会社帰りから早速困った。送迎車がホテルに着くと、運転手が何か一所懸命に手振りも交えて話しかけるが、私にはさっぱりわからない。でもどうやら、明日はどうするかと聞いているように思える。また、こちらも「明朝は8時にこのホテルの前に来て欲しい」と云わねばならない。しかし、いざ云おうとしても「明日」「朝」「8時」「ここ」のどの単語も何というのか見当もつかない。仕方なく、運転手の肩をポンと叩き、指で目をつぶった形をし、手枕で寝る真似をしたうえで、腕時計を示して、針をクルクルと回す手振りをし、時計の針を6時の形にしたところで手真似も加え目をパッチリ開ける。次いで、長針をまわす真似をして親指と人差し指で8時の形を作ったところでホテルの前を指し、念のため”8”という字を手のひらに書いた。運転手はやっと安心したらしく、にっこりと笑いながら”チャオ(ciao)”とかなんとか云いながら帰って行った。翌朝彼が時間通りにやって来た時にはホットすると同時に、早く簡単な単語くらいは覚えておかなければ大変だと痛感した。

そんな訳で、それから2か月以上経って家族を迎えた時には、単語の少しは覚えていたがその程度ではどうにも役に立たない。家から歩いて15分くらいの所に International School という看板を見つけ、私と家内とが別々に毎週3回、毎回1時間の個人授業を受けることにした。授業は英語とイタリア語で何とか習えると思ったのだが、英会話担当の先生はイギリス人で、イタリア語は校長の先生が自分で教えると言う。先生の英語はブロークンでレッスンはすべてイタリア語だけというので、どうなることかと案じられた。最初の授業では、片手を出して”mano”、両手を出して”mani”(“mano”の複数形)と何回も繰り返させる。その手をテーブルの上に置いて”sopra la tavola”,下に持っていって”sotto la tavola”と何回も繰り返させるといった具合に始まった。別に、文法書も兼ねたテキストの予復習の宿題が毎回課される結構に厳しいものだった。

イタリア語の発音は、ほとんどが日本語と同じように母音を伴うし、母音も日本語と似ている。先生は毎時間のようにdettatoと言って本を読みそれを私に書かせる。先生は「あなたの奥さんとあなたも意味がわっかっていない割には驚くほどdettato だけは良くできて全く不思議だ」と言う。私たちにしてみれば、わけもわからずにただ言われたことをローマ字的に書いているだけだのに。でも英語とイタリア語の関係ではそうは行かないらしく、アメリカ人やイギリス人は意味がわかっていても正しいスペルでは書けないとは先生の言だ。思いがけないところで日本語にも良い面があるものだと思った。

私は、そのレッスンと並行して、会社への送迎の運転手に、まずは片道20分くらいの間で「これは(あれは)何と云うのか」と景色を見ながら一々単語を訊いては覚えることから始めた。次いで、彼に覚えたばかりの単語や表現を用いて片言で話しかけると、彼は大喜びで単語や表現を直したり教えたりしてくれた。彼は余程それが嬉しかったらしく、彼の友人たちに「この inginiero (engineerのことだがイタリアでは博士号並み) に自分はイタリア語を教えているんだ」と自慢風であった。ただ、彼がそれに熱中し過ぎて、ハンドルを手離しては両手でゼスチュアたっぷりに話す。それには「お喋りのイタリア人を黙らせるのは簡単だ。両手を縛りさえすればよい」と何かに書いてあったのを思いだし、合点すると同時に事故を起こしはせぬかとヒヤヒヤものでもあった。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ 2011/11/21

 

第3話 イタリアの小学校と子どもの教育

Taranto 製鉄所へのシステム技術指導は1972年9月以降に本格化した。それに先立つ5月に行った際に生活環境を調べた。Tarantoはイタリア半島の土踏まずに位置し人口約30万人の都市だったが、小中学校は公立のみで私立はなく勿論イタリア語での授業で、9、8,6 歳と三人の子どもの教育が問題だと知った。そこで、日本への帰国後のことを考え、公立校での教育と並行して不足する日本語や科目別必要事項を自宅で教えることを考えた。7月に住んでいた市の教育委員会で事情を話して、指導内容と年度内の進度が記述された該当学年の指導要綱を例外的に貰った。また、日本文に親しむため子ども向けの本を多く持参することにし、子どもたちにはローマ字読みを教えた。

9月にまず私が赴任し11月に家族が来た。私は家内と、イタリアではどこでもそうだと後で知ったが、運動場もなく普通の建物と見間違える小学校を訪ねた。英語が話せるのは校長先生だけで「特別扱いはできない。9月始まりで学期途中なの言葉が少し分かるまで長女は3年、次女と三女は1年の別々のクラスに入れる。」と言われた。学年相当のことは家で教えるつもりだったのでそれでお願いした。3人の担任先生との話はその度に校長先生の通訳を煩わすので,私と家内はイタリア語のみで教える個人レッスンを別々に3ヶ月受けどうやら意思疎通が可能になった。子どもたちもその間3人一緒の別レッスンで学んだ。

当時の小学校は午前と午後の二部制で子どもたちは皆午前の部で昼には帰って来た。いつも気になっていた街中の飲食店で昼食時にウエイターをしていた子供達は午後の部だったわけだ。南イタリアでは意外にも「男女七歳にして席を同じうせず」が戦前の日本以上に厳しく男女は建物も別棟で登下校の時間も異なった。音楽や体操は時間割にはなく、子供達は「音楽は学校中を一人の音楽の先生が毎月一度オルガンと共に各教室を回り一緒に歌うが音痴の生徒が多い。おやつの時間がある。」などと驚いていた。(帰国後NHKの放送で小学校に音楽の時間がある国は世界でも日本くらいだと聞いた。)また、カトリックの国だけに、毎日学校で唱える「マリアの賛歌」と「主の祈り」が3人の最初に暗記したイタリア語の文章だった。

日本はその前後が経済の急成長期で、日本での私の生活も会社が主で月半分は出張の年もあり、帰宅しても子どもの就寝後が多かった。しかし、Taranto在住期間に限り「郷に入れば郷に従え」で定時に帰宅し子どもとの密接な交流ができた。子どもたちはすぐに言葉を覚え友だちもできて学校生活を結構楽しんでいるようだった。長女と次女は言葉が不自由なために本来より2年低学年の学習内容なので予復習も要らず、日本から持ってきた本を暗記するほど毎日読んでいた。そのほか、長女はピアノを習い帰国後も続けた。次女は絵描きと読書や作文が好きで、大きな白紙があれば何時間も一人で遊んでいたが、日本の学年では加減算を習う時期で、私が丹念に教えたことは懐かしい思い出だ。次女は帰国後には絵を習い、後に大学ではスペイン語がイタリア語に似ていると喜んでいた。いまも犬のブログなどで絵や文を描き楽しんでいるのはその時の影響もあるだろう。下の子は6歳で一番早く言葉を覚えすぐに友達とママゴトなど楽しんでいた。その分忘れるのも早く、帰国後にその頃のテープを聴かせても何のことか分からぬと言う。幼い時の、言葉も通じず習慣も違う中での生活で、表情での人の気持ちを察し易くなったと思うと本人が言うのもうなずける。

日本の小学校1,3,5年に相応する主要科目の学習はそれぞれの指導要綱で示された教科書の進度に沿って、毎週金曜日夜に、翌週一週間に読むべき範囲の頁を示して家内の手助けで自習をさせ、翌週の金曜日に私が理解度のテストをした。合格ならば土曜と日曜日は自由に一緒に遊ぶが、不合格の科目があればそれを土曜日に補習し日曜日は遊んで日本での進度に合わせるようにした。子どもたちの二年目はコレラ騒ぎで数ヶ月間の学校閉鎖となり、2年目はほとんど家での自習となった。その間は二重の勉強で少し大変だったろうがよく頑張って予定より短かった1年半後の帰国時には何とか相応の学年に戻れた。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/   2011-11-22

 

第4話 イタリア語とローマ字読み

イタリア語は、英語とは異なり単語の多くが子音と母音との結合で、日本語の単語に発音が似ている。また、アクセントも英語ほど多様ではなく原則として後ろから2番目の母音にあるので、それに注意すれば後で述べる例外を除けばイタリア語の発音はほぼ大丈夫だ。イタリア語学習の初め頃、「まだ無理だろうが」と言いながら先生が読む文章の書き取り(dictation、dettato)があった。こちらにすれば、英語よりはずっと平坦で、発音もはっきり区切って聞こえるので、意味は分からずともローマ字の羅列と思ってほとんどが書ける。それを見て、先生は「初心者同士を比べればアメリカ人より遙かに良く書ける」と感心してくれた。なるほど、英語が母国語の人はどこにアクセントやイントネーションがあるかに気を取られ、かえって聞きづらいのかも知れない。前にも書いたが小学校5年だった長女が、初めてイタリアの小学校に行った日に「イタリア語ってローマ字読みで良いんだね」と言うので「だからローマ字読みと言うんだよ」というと「あ、そうか」と納得したのも当然だ。

何事にも例外があるが、イタリア語のローマ字読みにも例外はある。まず、イタリア語には“K” の字がない。それに相当する発音の「カ、キー、ク、ケ、コ」はある。それは”ca, chi, cu, che, co” と書く。何故かといえば “ci” と書けば「チ」、”ce” は「チェ」と読むからだ。また、フランス語と同じで “h” の字は発音しない。ある日、イタリア人の相棒が「イタキ製はすべて品質が良い」と言った。私は一瞬「え?」と耳を疑った。でも「あ、そうか」と想像が付いたが、同僚は「イタキ?知らないよ」「そんな筈はない、世界中で有名な会社を日本人が知らないなんて」「いや、知らない」とやり合い始めた。そして、やおらもう一人が、「”Hitachi” をイタリア風に読めばイタキになるのさ」と言って言い合いは納まった。 ついでに言えばローマ字読みが通じない綴りがある。その一つは最初の頃になんと読むのか面食らった”Corgliniano” という製鉄所の名前で、日本語では発音が難しいが強いて言えば「コルギッニャーノ」とでもなろうか。その他 “gna” も英語では見慣れないスペルだが「ニャ」に近く発音となるのは Sardegnaの地名から想像できる。

“h” の無声化については、仕事の最中に「ハウアー」と何度も言う。何度も聞いていて”hour”のことだと気づいた。当時現地の小学1年だった末娘はすべてイタリア語読みになり、「オテル・パラチェ」と言う。何かと思いネオンを見ると”Hotel Place” だった(母音は日本語と同じく5個で発音もアイウエオに近くローマ字読みで英語と比し簡単だ)。 また、英語で苦労する ”r” と ”l” の発音も 私の体験からすると ”r” の発音を日本語より少し巻き舌にすれば良く、 ”l” は少し軽く発音するとアメリカ人に対するよりは良く通じた。彼らにとっての英語は、同じアルファベットを使うし、語源的にはラテン語からの単語も多く、我々が学ぶのよりずっと覚えやすいようだ。契約のため行った時にはほとんど英語がしゃべられなかった高卒の何人もが、3ヶ月後に赴任した時には余り不自由なく英語でコミュニケートできるレベルに達していたのには驚いた。彼らに言わせると、「英語の意味は大体想像できるが読み方は全くでたらめだ」と言う。私には外国語の発音は難しいものと思っていたが、そう言われれば、なるほど、私がかじったイタリア語、フランス語、ドイツ語では、例外はあるが発音の原則がある。しかし、英語のそれは例外だらけで原則が少ないことに気づかされた。しかし、彼らも付け焼き刃の英語なので、驚かされることも少なからずあった。一例を挙げると話の途中で「オッテルウィゼ」と何度もいうので、改めて「それは何のことか」と訊くと怪訝な顔をする。分からないので “How to spell?” と訊くと、彼はこれも分からないのかと “otherwise” と書くではないか。「なるほど!」と了解した。それ以来我々の中での彼のあだ名はオッテルウィゼとなった。 blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ 2011-11-22 10:31

 

 

第5話 イタリア語を学んで良かったこと

そのような訳で、3ヶ月のイタリア語のレッスンを終える頃には、子供たちは小学校で何とか皆について学んでいけるようになっていた。家内の方も、週に数回お手伝いに頼んだ英語が全く通じない近所のおばさんとの会話が私の運転手との関係みたいなもので、3ヶ月目くらい後には何回か聞き直せば何とか意志疎通ができるようになった。このようにして、家族揃ってそれから1年半のイタリア生活をエンジョイできる素地はできた。

イタリア語を覚えて一番役立ったことは、勿論、コンサルティング業務の遂行面であった。仕事では契約上は英語で行うことになっていた。相棒となるイタリア人の部課長クラスの部下である担当者たちは7月に最初に会った時には英語が殆ど話せず、どうなることかと心配した。しかし、わずか2ヶ月しか経っていないのに、9月には仕事上何とかやりとりができる程度に上達していたのには驚いた。(後に自分でイタリア語を少し学んで英語の学術用語みたいなのがラテン語すなわちイタリア語の日常語であることに気付きなるほどと納得した(例えば日本語で「カテゴリー」は哲学の時間くらいしか使わないがイタリアでは単に「分類」の意で、methodology「方法論」はmetodologiaだがこれは気軽に「やり方」の意で用いられるようだ。)そのうえ、契約上は英語使用だったので、イタリア語はわからなくてもコンサルタントの仕事を進めるうえでは直接的には困らなかった。

イタリア人が3ヶ月で英語がわかるようになるのであればと、我々の若い6~8年間以上も英語を学んだ団員に、「会社から授業料を払って貰うことにしたのでイタリア語研修をしよう」と募集したが、若い人たちは英語の上達も迫られてイタリア語を学ぶ時間的余裕がないことと、イタリア語がわかるからと後何年もイタリアに滞在させられては堪らないという理由で、応募したのは結局最年長の私ともう一人であった。しかし、私がイタリア語を学び始めたということがイタリア人にわかると、彼らは急に親しみを増し、私にイタリア語で話しかけるなど、いろいろ気を遣ってくれるようになった。また、英語で立派なことを云っている人が必ずしも正しく理解していなかったり、必ずしも信頼されていなかったりすることもあるなどがわかるようになった。ともかく片言でも彼らの言葉で話すことが、相互の友好関係の増進も含め予想以上に有効であることを体験できた。

そのほか、1970年代には日本人の旅行者もそれほど多くなく家族でイギリス旅行をした時、レストランの給仕人どうしで話し合っているのを子どもが聞きつけてイタリア語で話しかけたら驚き喜んでサービスが良くなったり、ニューヨークのタクシーで運転手の名前がイタリア系なので話しかけると急に愛想が良くなったりしたのも再々であった。しかし何より、イタリアを学んだことで発音は異なるが文法上はフランス語・ポルトガル語・スペイン語と似ており、それらの言葉を学ぼうという気が起こり、少しそれらを学び、辞書を引けば何が書いてきてあるかがある程度わかるようになったのは嬉しいことだった。

このような仕事面その他での直接的な効用に加えて、いま振り返ると、20歳代でアメリカに留学して習得した英語に加え、40歳になってから思いがけず全く未知のイタリア語を習い始めて、少し喋れるようになったことは、使っても減るどころか増える頭の中の財産を得たと言うことで、それ以後の私の人生を豊かなものにしてくれた。

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第6話 生活の上で遭遇する単語

イタリアでの生活に少し慣れ始めると、しばしば目に入る単語で「これは何だろう」と気になり始める。その場合、英単語の連想から旨く正しい意味にたどり着けることも多い。例を挙げれば切りがないが、”treno” は何となく “train” だろうとか、”stazione” は “station” から連想されると言った類だ。この方法も結構有効だ。イタリア語がほんの少しわかり始めるとそれの応用で解決する例もある。路上で良く”senso unico” という標識に出くわす。これなどは意味がわからぬと生命に関わりそうなので早速訊ねると、”senso” は英語の”sense” と同じ語源なのだろうと思えるし(後で伊語の辞書で調べると「方向」の意味もある)、”unico” は伊語の “uno” から来た言葉と思われるが「一つの」の意で,併せて類推すると「一方通行」なのだと納得できる。

しかし「生兵法は怪我のもと」の場合もある。水道周りでよく見かける “potabile” というのなどそれに類する。私の日常使った英語からの連想だとportable で持ち運べるしか思い浮かべられなかったがそれは幾らこじつけても無理だ。でも生命に関わりそうだから訊いてみると「飲用に適す」という意味だという。改めて英語の辞書を引くとそこにも発音は違うが同じ意味の英単語があるではないか。これには自分の英語力不足も思い知らされる結果となった。(そもそも英語やイタリア語を少し囓った程度の語学の素人がこのようなことを書くこと自体が「生兵法は—–」で間違いだらけかも知れないのだが。)

少しイタリア語を学び始めると、前にも述べたが、イタリアの単語がわからないときは

英語で余り日常は使わない高級な言葉を少しひねるとイタリア語になることに気が付き少し楽しくなる。例えば、ある日に仕事での議論の中で彼らは頻繁に “categoria” という単語を用いる。「哲学の時間に習ったカテゴリーを生産管理に用いるとはすごい」と思ったが、あとで日常会話の中で英語のclass と同じように気軽に使っているのがわかった。「はっきりしない」はobscureでなくambiguity を少し変えた “ambiguita” である,「信じる」は “believe” ではなくキリスト教の信条(credo)から連想し “credo” といえば「自分は~を信じる」となると言った具合である。

話題はそれるが、標識と言えば、韓国に行ったときは遠くから見ただけでは何を売っているのかがわからず困惑したが、台湾では戦前に習った略式でない難しい漢字と出合って懐かしく感じたし、中国でも簡略字を少し覚えるとわかって嬉しい思いをした。イタリアの街で見られる店の看板も今となっては台湾、中国並みにわかって楽しい。

言葉とは面白いもので自転車と同じく、身体で覚えたものは忘れないらしい。語学は昔から好きだったので、一時期ドイツ語会話に興味を持ちある程度話せるくらいにはなっていたと思うが実際に使ったことはなかったので、ドイツで話そうとしたら思い出すのに時間がかかって使いものにならなかった。英語は比較的若い時に2年間留学し、それ以降も、何回もそして何年も海外で英語を使って仕事をしていたので、外国に行くとその夜から夢が英語になることはしばしば経験した。それに比して、40歳にして初めて学んだイタリア語はブロークンながら3年近く生活で実用していただけに、自転車と一緒で、いざとなればなんとか無意識にそれらしい言葉が出てくる。

1991年に研究のため、ドラッカー先生の大学院のあるカルフォルニアのクレアモントに半年ほど滞在していたときのことだ。行きつけとなった散髪屋の主人と話しているとしているとその友人が入って来るなり主人にイタリア語で話しかけた。それが面白かったのでクスッと笑ったら、主人が「イタリア語がわかるのか」という。彼はイタリア語で嘗て私が住んでいたタラントの隣町の出身だった。それ以降は毎回イタリア語で話しかけられるのには参ったが、昔に使ったイ語のさび落としには役立った。クリスマスの少し前に行ったとき、帰り際に彼から “Buon Natale”(クリスマスお目出とう)といわれた途端に、 全く無意識に私の口から 突如 “altrettanto a Lei” と出たのには我ながら驚いた。店を出ながら何故だろうとその言葉を繰り返すと、それはその時から20年近くも前のイタリアでの何回かのクリスマスの時期になると、朝夕会社で会う人ごとに何十回となく繰り返し交わしあっていた((the same to youの意)言葉で、身体で繰り返し覚えた言葉は自転車と同じく条件反射的に出ると言うことに気づいた。

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第7話 イタリア語と名古屋弁など

十数名のコンサルタント団員も、数ヶ月すると段々とイタリアでの生活も慣れて来た。そして、イタリア語を聞いていると、何となく名古屋弁みたいに聞こえるという者が現れた。私もその頃にはイタリア語の3ヶ月のレッスンも済み、少し分かりかけていた。そう云われてみると、英語で”let us do…”つまり、「何々しよう」と言う一人称複数の動詞変化は、イタリア語では例えば動詞「行く(andare)」はandiamo,「食べる(mangiare)」はmangiamoと行った具合に…amoと変化する。これが「なーも」という名古屋弁(真偽のほどは知らないが”ナーモシ”がそうなったと聞いたことがある)に似ているというわけだ。 そこで、誰云うともなく、仕事が終わってホテルへ帰る頃になると、「帰ろうや」と言う代わりに「帰りやーも」と言うようになった。本人はイタリア語を喋っているようで感じで心地よい。それが伝染して、昼休みに入ると「仕事をそろそろ止めやーも」、「飯喰いに行きやーも」等々と大流行である。イタリア人が聞きつけて「”owariyamo”と言うイタリア語は聞いたことがないが何のことだろう」と聞いて来る始末とあいなった。ついには彼らも我々のチャンポン日・伊語の幾つかが共通に通用するようになって益々エスカレイトし、”ganbariyamo”など次々と珍動詞を発明しあってしばらくの間は我々一同のささやかな楽しみになった。ホテルでも食堂や受付でそんな日伊のどちらとも付かぬ珍語が氾濫し従業員も日本語が使えるぞとばかり話しかけるので時には我々が戸惑うこともあった。

そんな時期に、何日かの連休で(日本ほど多くはないが彼らも”ponte”(橋という意)と称して楽しんでいたが、我々も負けじと団員揃ってナポリに遊びに行くこととなった。ナポリでバスに乗るときも皆で「さあ乗りやーも」「そろそろ着きやーも」などとやっていた。同乗のイタリア人はきっと日本語はイタリア語のような部分もある訳の分からない言葉と思っていただろう。そろそろ降りようとしているときに、すぐ隣に立っていたイギリス人の新婚らしきカップルが英語で「彼らは日本人らしいが、さっきからイタリア語を上手に使っている。大したものだ」と囁いているではないか。途端に私は大きな声で、「さーみんなで降りやーも」と叫んで「降りやーも」「降りやーも」とばかりバスを降りて後、皆にことの顛末を教え、大笑いをしてそのおかしさを分け合って喜んだ。

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第8話 コンテッサ(公爵夫人)

家族との南イタリア在住も一年が過ぎ、英語混じりながら何とか会話もできるようになって製鉄所幹部と相互に自宅に招く晩餐交流を始めた1970年代中頃、その関連でコンテッサと近郊の人から呼ばれている人の家に招かれた。

私が中・高生時代の終戦直後に相次いだ貴族制度廃止、農地改革、新円への切り換えなどで、日本では農耕地の大規模所有はいなくなった。しかし、欧州では、英国を除いて他の各国は貴族制を廃止したが大地主が多く残存していると聞き、イタリアでのその実情が確認できると喜んでこの招待を受けた。

ある休日のpranzo(正餐、昼食)に、家内と10歳を頭に3人の娘は着物姿で、車で一時間あまり郊外一帯の葡萄畑やオリーブ林を通ったあと、岡の中腹に立つ立派な正門に着いた。電話で解錠して貰い大きな屋敷までさらに2kmくらい進んだ。ポーチのある玄関ではコンテッサと20歳代前半の娘さんが待っていた。その家は300年ほど昔から先祖代々が住んできた石造家屋とのことで、広い応接間にはアンティークで豪勢な家具があり、飾り家具には銀の食器や綺麗なお皿などの装飾品が並んでいた。家具は自庭の百年以上経ったオリ-ブの木材製とのことだった。ご主人のConte(伯爵)は今日を楽しみにしていたが急用でローマに行って留守とかで、二人から日本のことを興味深げに訊かれ説明した。

やがて昼食となり、とても台所とは思えない大きな台所との間で料理皿を出し入れする50 X 300cm程の小窓のある何十人ものパーティができそうな大広間の食堂へ案内された。

正餐は給仕人付きで時間をかけ会話を交わしながら進んだ。その話では、製鉄所の稼働以前は周辺に雇用が少なく低労賃で使用人を多く雇えた。しかし、稼働により高賃金での何千人という雇用が生じ、使用人確保に苦労している。昔はここで葡萄摘みやオリーブの実集めしかしなかった人たちに機械の運転などできているのだろうか、とのことだった。

食後は、2階の多くの部屋を見せて貰ったが、祖父・母の部屋は生前そのまま保存されていた。ベランダから四方見渡せる限りは所有のオリーブの木々で、「皇居より広いかも知れない」というと「これが東京なら大金持ちでしょうに」との答えだった。「労働力不足で膨大なオリーブの実はどうするのか」と訊くと、「いまは便利で、オリーブ油精製会社に頼めば、機械で木を揺すって実を落とし集め、持ち帰って製油し代金だけが送付されるので、昔みたいな手が掛からない」との返事で、「それならまわり全部が金のなる木ですね」というと「まあそうですね」との答えであった。上の娘と息子はパリに住んでいて、年に何回かは自分たちも往来するとのこと。先祖からの相続財産でしかもそれが一回植えれば百年以上も毎年実を結び代金が入る見渡す限りのオリーブの木々に囲まれ、公認ではないが近郊の人には認められ、まさに貴族とはこのような生活をいうのだろうと思った。

帰りの車のなかで家内と、「彼らの財産は石造の家で、家具、銀製品の食器など何世代も相続できるのに比べ、日本の家は木造で布団や箸など自分の世代も保たないのと比べると、日本は豊になったというが社会のストックという意味では比較にならない。イタリアルネッサンスの芸術もこのような生活のゆとりから生まれたのだろう」と話し合った。

貴族といえば、所長のコスタ氏は背丈も高く堂々として貫禄・威厳あるなかに思いやりもあり、名門の家柄といわれるだけの noblesse oblige の風格を感じさせた。また、一軒先隣のロマノという人の大きな屋敷に招かれ、子どもが自転車で走り回れるほどの広さの地階の書庫にはロシア語の装飾本がぎっしりと詰まり、幾間もある2階の一間は祖母の生前のままの部屋が残されていて驚いた。しかし、コンテッサの家はその比ではなく上には上があるものだと思わされた。

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第9話 イタリア語と音楽

このように縁が深くなったイタリア語であるが、それを「外国語」として最初に意識したのは、1962年に初めて欧州での学会発表に出張した時のことである。ドイツのDusseldorfから、イタリアの Milano に行く列車のコンパートメントで、同室のイタリア人の大学生が英語で話しかけてきた。話題が言葉のことになって、彼が「イタリア語は知っているか」と訊く。私は「全く知らない」と答えた後、ふと音楽の時間のことを思い出し、「そうだあれはイタリア語だと音楽の先生が言われていた」と気付いた。そこで彼に「でも単語なら幾つか知ってるよ」と、「アンダンテ、フェルマータ、ピアノ、フォルテ」など思いつくままに言った。その時の彼の驚いた表情は未だに忘れられない。調子に乗ってアレグロ、モデラート、カンタービレ、……」と続けた。私にしてみれば彼に音楽用語だとわからせるつもりだった。でも、彼は「それだけ知っているとはすごい。一体どうしてなんだ」と未だそのヒントに気づいた気配は全くない。「これくらいなら、日本の中学生ならほとんど知ってるよ」と言うと、彼は目をむいて、「どうしてそんなことがあり得るだろうか」と問いかけてきた。私は「音楽の時間に習うのさ」と答えた。その時彼はさらに混乱して、「音楽?そういえばイタリアでもそんな言い方をするけれど、それはイタリア語だから当然として、日本でもそういうのか」と半信半疑である。その後、何人かに訊いたがイタリア人は音楽符号がイタリアだけのものと思っているようだ。これにはこちらも少なからず驚いた。

イタリアに住むことになり、言葉が少しわかるようになって、バスの停留所に行くと,”fermata”と書いてある。「はてな、どこかで聞いたぞ、ええと、その符号の状態で任意の時間留まっているという意味だったな。つまり、その記号でしばし停留することだ。なんだ、明治頃のこれを訳した人は停留所のこともそう言うと知ってたのだろうか。それにしても難しい訳をつけたもんだ」と感心する。そう思ってその他の音楽用語を見直すと、イタリア人にとってこれらは全くの日常用語なのだ。子供たちは声が小さいと”forte!”、大き過ぎると “piano”と注意される。イタリア語の先生からは英語では「ピアノ」と云うがあれは元来”pinoforte”つまり、音の強弱が出せる楽器という意味から省略されたのだ」と教えられたことなども思い出す。

この類のことでは、日本人には、イタリアは音楽の国なので小学校でもきちんと教えるのだろうという思い込みがある。娘たちがイタリアの小学校に入ってしばらくして、三人とも「お父さん、私たちもイタリアでの音楽の授業を楽しみにしていたのに、小学校には、持ち運び用のオルガンが一台あるだけで、月に数回音楽の先生がオルガンと一緒にやってきて歌うだけだよ。それにみんな音痴で日本の小学校の方がよっぽどちゃんと教えてくれて上手だよ。」という。会社でのイタリア人の相棒に聞いても小学校では音楽を日本のようにきちんとは教えていない様子で、何人かの例外を除くと、宴会で日本のようにあまり歌いたがらなかった(もっとも今のようにカラオケが流行る前だったので今はどうかわからないが)。「灯台もと暗し」。1973年頃の南イタリアでのことなので、一般化はできないが、確かに「音楽の国イタリア」という我々の思い過ごしもあったようだ。

イタリアでの音楽についてのもう一つのことは、イタリアオペラで何と云っているか少しわかるようになったことだ。これは善し悪しである。というのも、何の意味かわからずに唱えているお経が、ありふれた日常語で語られるようなことで、折角の有り難みが減じる感もするがそれと同じ類のことである。

そのことと関連して、イタリア人にとって、オペラはかっての日本人にとっての浪花節みたいな存在なのではないかと思えたことである。ある日、自動車修理工場の前を歩いていたら、すばらしいテノールのアリアが工場の中から聞こえて来る。最初はラジオかなと思ったがそれにしては伴奏がない。立ち止まって聞き惚れていたら、一寸それが途切れて、修理工のおじさんが油だらけの作業着で車の下からゴソゴソと這い出てきて、今度はしゃがんで車輪廻りを点検しながらその続きを朗々と歌い続けているのには驚いた。イタリア語でアリアがあんなに立派に歌えるようになるには、日本だと音大の声学科にでも行った人しか思いつかないが、よく考えるとイタリア人にとっては、声さえ良ければ誰だってアリアを歌えて不思議はないのだ。そう思ったら、思い込みというのは恐ろしいものだと思い知らされた。

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10話 イタリアのワイナリ

私たちが住んでいたTarantoという街は、イタリア半島を長靴とみると土踏まずの所にあり、北緯40度、日本で云えば盛岡あたりに相当する。しかし、気温から云えば鹿児島並みの暖かさで、5月頃から10月頃までエメラルド色の綺麗な海で泳ぐことが出来る。紀元前300年頃のずっと昔からギリシャの植民地であったので、私たちも訪れたタラントの博物館は、ギリシャ時代の壺などの収集では世界的なものらしい。ローマ時代には、100kmくらい西の、長靴で云えばくるぶしに相当する Brindisi という町からローマに通じるアッピア街道が製鉄所の近くを通っていて、ハンニバルが通った道なのだなどと想像した。 第二次大戦頃は軍港で、湾口を連合軍に封鎖されて役に立たなかったと聞く。 Tarantoは何百年も昔からの旧市街と隣接した新市街からなり、私たちが住んでいた頃(1970年頃)は、約30万人の人口を持つ都市であった。その郊外には、南部開発の目玉の一つとして国営の欧州一の生産量を目指す製鉄所の建設が進んでいた。

Tarantoの一帯は、山口県の秋芳洞周辺を彷彿させるような、岩石がごろごろと転がった土地で、雨も2月、3月頃に少し降る程度であとは殆ど降らない。高い山もなく、独特のくねくねとした形のオリーブの木か葡萄畑以外には木も畑もない、岩石の多い丘陵が広がった半ば砂漠に近いとさえ思われる風景が続いている。したがって、水は硬水であまり旨くないし、沸騰させると底にカルシュウムが白く残るほどである。土地の人たちは、食事時にはその水を水差しから各自のグラスに注いで飲む。郊外の安い食堂では、ビールの小瓶ほどでビールのように栓抜きで開けるワインを水代わりに飲む。その値段は驚くことに何とミネラル水よりも安い。灘生一本の産地である西宮で少年時代を過ごし、酒造りに大変な手間と時間が掛かることを知っている私には、何故ワインがミネラル水以下の値段で供されるのが不思議であった。しかし、その秘密は意外と簡単に解けた。

私がかねて友人に頼んでいた郊外のワイナリ見学が実現したのである。Taranto周辺の葡萄畑は周囲を小石で積み重ねた低い石垣で囲まれた、胸にも及ばないくらいに低い葡萄の木の畑がいたるところに広がっている。石垣で囲むのは、動物が進入するのを防ぐ目的もあるのかも知れないが、畑地にするために掘り起こした石の捨て場といった理由の方が正解のようにも思える。一時間近く車を走らせたが、道路の両側は一面の小さな葡萄の木が点々と生えた葡萄畑で、収穫している人たちがあちこちに見える。これがワイナリだという粗末な建物が見えてきた。近くの葡萄畑では数人が頭にざるのようなものを乗せ、立ったまま小枝ごと切り取った葡萄をそのざるに放り上げて入れる。ざるが一杯になると近くのあぜ道に止めてある小さなトラックまで運ぶ。トラックの荷台には防水シートが掛けてあってプールのようになっている。その中に山盛りになるまで頭上の葡萄を放り込む訳だ。

一緒に行った友人がイタリア語で一々説明してくれる。これから書くことは彼の説明によるものだし、私のイタリア語だって危なっかしいものだから、間違いもあるかも知れないが、おおよその所は正しいと思われる。

友人の車の中でワイナリらしい建物敷地の入り口のところでちょっと待っていると、葡萄を満載したトラックがやってきた。入り口の秤量器の上にトラックが停まると、トラック込みの葡萄の重量が記録される。秤量が終わると、秤量器係のゴム長を履いた男がトラックの上の葡萄の中に乗り込み、手にした長さ2メートルほどパイプをグサッと葡萄の山に向けて突っ込む。パイプの中に入った葡萄を、入り口にある小型冷蔵庫くらいの大きさの遠心分離器に押し出しスィッチを入れると、数分で葡萄の糖分がメーターに表示される。荷を下ろして帰る時点でトラック自体の重さを再び秤量し、差し引きでわかる葡萄の正味重さと、表示された糖分を掛け合わせた価で代金の支払いがなされるという。糖分は18%弱くらいであったと記憶するが、雨が降った年は糖分が低くなりワインの質が良くないそうだ。トラックはダンプカーになっていて、地面に漏斗状に掘られた穴に向けて荷台の前方を押し上げドット葡萄を落とし込む。すると漏斗状の下部から斜め上に向かって上っているパイプの中を回っている螺旋状の棒で2階まで葡萄を持ち上げていく。2階には大きなガラス窓のついた水槽状の部屋が幾つもあり、葡萄は洗われることもなくその中の一つに堆積されていく。そのようにして下方に葡萄汁がある程度自重で溜まるまで置いておくらしい。その様子を見ながら1階の建屋の中に入ると、2階の葡萄を入れつつある槽の隣の、葡萄の実・皮・小枝・汁が一体となった葡萄槽の下の栓が抜かれ、フィルターを通して葡萄汁のみがホースで地下の葡萄槽に流し落とされていた。そのまま一・二ヶ月くらい経つと自然に発酵し発熱しながらワインになるという。確かに隣の方の槽の蓋に相当する地面は発酵熱で暖かくなっている。

葡萄汁を抜いたあとに残った葡萄の皮と小枝のグシャグシャの固まりは、別の男によってショベルで大きなバケットに入れられ、ほんの少し隙間の開いた直径が3mはあろうという大きな木樽にクレーンで入れられる。樽の隙間から汁が流れ落ち始める。その汁は下の受け皿で集められ、別の地下の槽に流し込まれる。一番上まで固まりが積み込まれると、上から蓋をして、その蓋を水圧機で押し下げて最後の一滴まで汁を絞り出す。こうして集められたものは濃い汁なので、先ほどの葡萄汁から出来るワインよりアルコール分が多く20%近くになるらしい。この濃縮分と自然に流れ落ちた汁との配合で売り出すワインとしてのアルコール度を14%程度に調整するのだという。地下にある葡萄液槽の幾つかの汁を味見したが、早く発酵に入ったのは葡萄汁に少しアルコール分が入ったような葡萄ジュースの味だった。こうして次々と地下の槽に溜めて置いておけばワインが自然に出来るらしい。その間に若干の作業があるのかどうか聞きそびれたが、西宮の酒屋さんで見た麴の仕込み、かき回し等々の大変な重労働に比べると簡単極まりないと思われた。

また、原料となる葡萄の作り方の手間でもイタリアの方は想像を絶するほど簡単だ。会社を退職し大学に勤めている間に私が住んでいた南大阪の家の近くにも葡萄園が幾つもあった。果実用ということもあるが、その手入れは大変なものだ。ビニール張りの温室の中で2メートルほどの高さになるように鉄パイプで棚を作り、前年の秋には小枝を全部切り落とす。初春になるとヒーターで温室内に熱風を送り込み、雑草が生えないように草取りをする。春になって早生の葡萄が実ると、頭の上にたわわになっている葡萄を房ごとに上を向いて採る作業も大変だ。それを、房ごとに選り分けて、紙箱に丁寧に詰める。どの作業も大変に手間を喰うから、葡萄が高価なのももっともだと思う。このような葡萄を原料に、酒造りのような手間を掛けたのがワインだと思っていたから、水より安いワインなどは思いもよらなかった訳だ。

しかし、雨が殆ど降らず、温暖な気候のイタリア南部地方では、雑草が生える訳もなくそんな手間は掛からない。また、葡萄の木が、一年掛かって葡萄の中に木の一本当たり数リットルの水分を地下からポンプを使うこともなく自然に吸い集めてくれる。糖分を含んだ水分たっぷりの葡萄の実は、その木がお腹位までの高さなので、上を向くこともしゃがむこともなく簡単に葡萄を摘み取り集めることができる。その葡萄の実は、そのままだと腐るが容器に入れて置くと自然にワインになり保存も利くというものだ。いってみれば、葡萄の木は水の自動吸い上げ器とアルコール自動変換器のような感じさえする。

また、そのようにして出来た若いワインをビール瓶みたいなものに詰め王冠をすれば、手間はほとんど掛かっていないのだから、安い食堂でみかけたエビアンより安いワインになる筈だとやっと納得できた。

ついでのことに、上等のワインはそれをもう少し長期間寝かせて、より高級なブランドのワイナリにブレンド用として送られるらしい。また、イタリアの北部では、グラッパという、アルコール度の高い一種の焼酎があるが、それは水圧で搾った糟から小枝だけを取り出してそれを発酵させ蒸留するのだという。その際に悪いアルコール分を取り除くのが難しく、南部では造らずその技術をもっている北部に原料として送るのだと云っていた。また、白ワインは白葡萄酒で、赤ワインは赤葡萄で造るといっていたがこれらのことの真偽のほどはわからない。

ともかく、世界には、自分の狭い体験から判断するには思いも付かないようなことが沢山あるということを実感できた。

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11話 油を使わない魚のフライ

イタリア料理も北と南では異なる。私達が生活していた南ではパスタとオリーブ油がすべての料理に不可欠だ。北ではそれにバターとリソットが加わる。なかでもオリーブ油は日本の醬油に相当し,パスタ料理はもちろん、現地の人はパンも含め何にでもオリーブ油を付けたり掛けたりして美味しそうに食する。出張で日本から来た人のなかにはオリーブ油が苦手な人もいたが、さすがにその香りすらも嫌だというほどの人は多くはなかったが、それでも一人はいた。彼にとってのイタリア料理は、醬油なしの日本食みたいなもので、それなしの食べものはほとんどなく、彼の滞在期間中は気を遣ったが短期間だったので助かった。

それほどでなくても、ホテルに何ヶ月も滞在して日常に使う単語を覚える頃にはオリーブ独特の臭いが鼻について来る。パスタにオリーブ油が入っているのは美味しいが、黙っているとcameriere(ボーイ)がサラダや魚料理にもオイルをかけてもってくる。慣れるとそれも美味に思えるけれど、それを嫌う人もいる。その一人は、すぐに、”senza olio” (オリーブ油なし)という言い方を覚え、それをcameriereに連発するのが口癖になっていた。

ある日、いつものように夕食のために滞在していたホテルのレストランに彼も含め数人で入った。皆はもう慣れたもので、各人がイタリア語のメニューを見て好きなものを注文した。彼は “peshe furitta” (fried fish)と注文したあと、口癖になっていた”senza olio”と付け加えた。それを聞いてcameriereは一瞬けげんな顔をして、隣席の人との話に夢中な彼に “senza olio?”と確かめた。彼は話を中断されて不愉快とばかり “certo” (certainly)と答えた。cameriereは何ともいえない顔をしてもう一度同じことを訊ねたが、「何度聞くのか」とばかり彼が “certo!!”と大声で答えたのに困り果てたようすだ。彼は無意識に口から”senza olio”と出ただけで気づかないようだったが、彼がいっているのを続けると”Peshe furitta senza olio” 「つまり、油を使わない魚フライ」と意っていることになる。そこで私が茶目っ気を起こしてcameriere に「 “pesce bollito” (boiled fish) のことだよ」と言うと「ああ、”pesce bolito” のことですか」と安心したような顔で私に確かめる。するとそれを傍で聞いた彼が、「井上さん、違いますよ。私は “pesce furitta” を頼んだのですよ、間違えないで下さい」と私に抗議してきた。そこで彼に「油なしで魚を揚げといわれれば煮るしかないではない?」というと、やっと本人もそれに気が付いて、”con olio!” (油で)と大声で訂正した。cameriereも、彼の口癖の “senza olio” がつい出てしまったのだと気付いたようで皆で大笑いをした。それを伝え聞いた会社での相棒のイタリア人の間では それ以来 “senza olio” が彼のあだ名となった。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ 2011-11-16 15:31

 

第12話 イタリアの南北での違い

イタリアというのはローマ帝国の流れを汲み、明治維新と同じ頃ガリバルディによって統一された国であるというのが、高校の世界史で習ったことだ。しかし、1970年代では日本と比しても南北の経済格差が存在し、南の方が経済的には大きく遅れていた。太陽道路(strada del sole)はこのような問題の解決策の一つと言われていた。我々が技術協力をした Taranto 市にある Italsider 社の Taranto 製鉄所も同じ観点から建設された、単一製鉄所として同所を欧州一の生産量(1.000万トン/年)を誇るものにしようというものだった。我々が赴任した1972年頃はその生産目標の半ばを達し、それを倍増しようと言う時期だったし、Taranto 製鉄所は南北格差対策の希望の星でもあったのだ。

これから述べることは40年近くも昔のことだから、今ではここで書かれるほどひどくはないかも知れないし、愛するイタリアの人たちにこのようなことを書くのはいささか酷かも知れない気もする。しかし、南北問題は依然として未解決の面が多く、いまでも北部独立さえ論じられていると最近の新聞でも報じられている。この辺の感情は自分たちを同一民族だ思いこんでいる日本人にはおよそ想像を絶することだ。そんな訳で、びっくりさせられるほど根深いと思われた当時のその南北問題の感情の一端を垣間見た例を紹介する。

話題には少し遠回りとなるが、まず、我々が南部イタリアに駐在することになった事情から述べねば話は進まない。これは2010年の桃山学院大学の経営経済論集に掲載された私の論文に詳しく述べているが、ITALSIDER というイタリア最大の鉄鋼会社の社長がブラジルの USIMINAS 社という製鉄会社を見に行って、日本の鉄鋼会社の技術協力で大きな成果をあげていることを知り、新日鐵に技術協力を依頼してきたという。当初は、同社の生産設備自体やその操業技術の新日鐵からの技術協力から始まった。そのうち、世界で初めて実現した君津製鉄所のオンライン生産管理と同じようなシステムをTaranto製鉄所でも実現したいということになった。後で同社長から直接聞いたところでは、同社長が君津に来訪した時に次のような説明を受けそれが実現されているのを知り感動したからだとのこと。それは、「君津では『計画通りの量を生産する。計画量より多すぎても少なすぎてもいけない。』と言うことがシステムとして実現されていた。一方、当時の Italsider 社では計画の達成が困難で、100を生産させるためには計画を105と発表する。すると100くらい生産すればいいのだなと従業員が納得してしばらくはそれで100の目標が達成できる。しかし、それに慣れてくると次第に100の生産量達成が困難になる。すると、生産量100達成のためには生産目標を110に上げねばならなくなる。このようにして目標と実績の間が次第に乖離している。同社には北のGenovaに200万トン/年の製鉄所がある。その規模だと10%の誤差でも、20万トン/年と大した量ではないが、Taranto 製鉄所がフル生産、つまり年間1,000万トンに達すると、10%の誤差は年間100万トン、つまり小さな製鉄所一つ分にも相当することになる。従って、今のうちにこの悪弊を打破して、計画量通りを生産する体制を作りあげないと大変なことになる。」この話から技術協力を受けることが決まったという。

さて、前置きはこれくらいにして本論に入ると、協力の最初の仕事は、イタリア北部の Genova に所在する Italsider 社の本社と Cogliniano 製鉄所、およびイタリア半島南端の Taranto 製鉄所の調査から始まった。南北の違いを気付かされたのは Genova 本社の北部出身の人と共に Tarantoという都市に行ったときのことである。

昼食を海に面した、Al Gambero という高級レストランでご馳走になった。昼食といっても正餐でオードブル・食前酒に始まって、primo のパスタ類、secondo の肉や魚(その中にはこの店の名前の由来である大きなgambero;伊勢エビの類も入っている)、その間に出される赤・白の高級ワイン、そしてデザート・食後酒・エスプレッソと2時間以上も延々と続きその間お喋りに興じる宴会であった。北から随行して来たB課長と隣り合わせに座った。彼は徹底した南北差別主義者のようで「イタリア南部はヨーロッパの南端と言われるが、それは間違いで、実際はアフリカの北端だ。ガリバルディは全く要らぬことをしてくれた。」などと言い続けるのでこちらは戸惑った。食事の途中で、窓から外を見ていた彼が「ミスター井上、面白いものを見せるからちょっと外に出よう」と言う。ついて行くと、海辺で彼が「さっき私が言った事が噓でないことを、ここで見せてあげるから」と小銭を何枚か海の方に向けて放りあげた。するとそこいら中で泳ぎ回っていた小学生たちが一斉に落ちてくるコイン目がけて泳ぎ、海中に沈んでいくコインを潜って手にし、誇らしげに手中のコインを見せ高く放り上げて口に入れるのだった。彼は、「これでさっき言ったことが本当だと納得したろう?」と私に相づちを求めた。その光景を見て、一瞬、終戦直後の、米進駐軍が日本の子供たちにチュウインガムをばらまき、それを拾っていた我々同世代の子供たちのことを思い出した。しかしその光景とこれとは随分違うように感じた。その違いはすぐ感じ取れた。一つはイタリア人とくに南の人たち、なかんずく子供たちの底抜けの明るさである。終戦直後の我々日本の子供たちはガムを拾いながらでも後ろめたさを感じながらだったようだ。それと違って、南イタリア子供たちは、無邪気でゲームを楽しんでいるようで微笑ましくさえあったのが救いだった。もう一つの違いは、もし、同じようなことが仮に日本にあったとしても、我々だと外国人には隠すようなことを、彼が自慢げな態度で国の恥部とさえ思えるこの光景を演出して見せた事実である。相づちを打つ代わりに、私は思わず「どうして同じイタリア人でありながらこんな情景を私に見せるのか」と問うたがこれは野暮だった。彼は即座にあっけらかんと答えたものだ。「これで彼らが我々イタリア人とは違うことが実証できたろう」と。 私がアメリカに留学した1960年頃の黒人への差別もこれに勝るとも劣らぬひどさだった。しかし、いまではこのような差別は表だってはなされない。イタリアでもいまでは多分そうだろう。しかし、最近の北部独立党の動きなどを新聞で見ると長い歴史の中に植え付けられたこのような感情がどこかに潜んでいるのだろう。

それともう一つ感じたことは、少なくも我々がいた南部では南北の人の交流はあまりなく、北部や南部の人々の中に、その出身地方、いわゆる「県人意識」が日本よりもずっと強いということだった。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ 2011-11-17 11:18

 

13話 南イタリアの人たち

我々家族一同で習ったイタリア語の先生夫妻は、姉さん女房で子供がいない大変に気さくで明るい南部イタリア人の典型ともいえる人たちだった。3ヶ月のレッスンが済みかけて皆が何とかイタリア語で最小限の意思疎通ができるようになった頃に、「子ども達も一緒に家まで遊びにいらっしゃい」と家に招かれることになった。 先生の家は、そう遠くない、その近辺にありふれた10階建てくらいのアパートの6階にあった。お昼ご飯に、”pranzo(正餐)”というイタリア料理のフルコースでもてなすと言う。まず、食事が始まる前に、建物から出っ張って屋外になったバルコニーで、”antipasto(オードブル)”を食べながら、”appertivo(食前酒)”を飲むという趣向だった。シニヨーラ(夫人)が食べ物を運ぼうとしてバルコニーへ出た途端、「まあ、何てことを!」と叫んだ。何が起こったのかと行ってみると、「今さっきここを掃除して綺麗にしたばかりなのにもう塵だらけになっている。これだからイタリア人は駄目なのよ。きっと、たったいま上の方の階の誰かが塵をはき落としたに違いない。まったく! 自分さえ良ければよその迷惑なんか考えないのだから。」とプンプン怒っている。無理もないと思うくらい塵だらけだ。「d’accordo(その通り)」と言おうとして息をのんだ。なんと! シニヨーラはやおら箒を持ち出してきて、その塵をサッサと下の階の方に掃き落としているではないか。家内と私は、びっくり仰天した。というのも、たったいま「イタリア人は他人の迷惑など考えないから本当に困ったものだ」と言った帳本人が舌の根も乾かぬうちに同じ事を当たり前の顔で平気でしているのだから! 気が付いたら家内も同感だったらしく家内と二人で顔を見合わせて笑いを殺すのに苦しんだ。そして思った、「本当にこのシニヨーラこそ悪気のない生粋の南イタリア人だ!」と。

また、これは南部だけかも知れないが、イタリアの会社の同僚から大晦日の真夜中は外を歩いたらいけないと忠告を受けた。「どうしてだ」と訊くと「年が明けると同時にアパートの階上の方から何が投げ落とされるかわからないから」という。元旦には昔風にチリ一つないように清掃することが習慣づけられた我々には思いも寄らないことだったが、なるほど彼の言うように元旦の道路は上から投げられたとおぼしきものがたくさん落ちていたのにも驚いた。

もう一つ奇妙に思えたのは、Taranto近郊のちょっとした集落の多くは岡の上に立ち並んだ石造りの家から形成されているのだが、日暮れ前の小一時間ほどは集落の中に必ずある小公園のあちこちに男ばかり数十人、数百人と群がって両手でのゼスチュアたっぷり立ち話をしている光景が展開されることだった。これは一緒に滞在した同僚の多くもあちこちで見たらしく、女性の影すら見えない風景は、我々には異様な南イタリアの一つとして思い出される光景の一つである。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ 2011-11-21 15:26

 

14 サルデーニャ(Sardegna)でのバカンス

1974年初夏、3ヶ月のイタリア南部滞在中に4日ほど休日があった。イタリア人のバカンス気分を味わいたいと行きつけの旅行社に出かけた。「国外では余り知られていないがホテルが整っているSardegnaの浜辺はどうか」との答え。いつもの気ぜわしい名所巡りとは違う注文に「浜辺のほかに見るべき何もなくても良いのか」と何度も念を押されたが「それで頼む」と答えた。

島南の主要都市Cagliariまで飛行機、後はバスに数時間乗って、島の東海岸に長く続く綺麗な砂浜の側の町に着いた。(多分Foddiniの近辺だったろう)。聞いたとおり、こざっぱりしたホテルの他は土産店、Bar,日常雑貨店などがあるだけで、見るからに嫌でもノンビリとバカンスを過ごすしかない町だ。翌朝、寝坊をして朝食を済ませ、水着姿にガウンですぐ裏に続く砂浜に出た。日本なら海水浴客でごった返すだろう砂浜に、ビーチパラソルが散見され、近くには若年と中年のカップルが腹ばいになっていた。私も真似て寝そべった。しばらくまどろみ、時折り目を開いては紺碧の空と海を見ながら、「これぞバカンス」と満足していたが、2時間もすると退屈になり海でしばらくは泳いだ。また、砂浜で少し横になり昼過ぎにホテルへ戻り、遅い昼食をとってイタリア人なみにsiesta(午睡)をとる。その後で海辺へ出て午前と同じように6時近くまでを過ごした。海浜のカップルたちは、私には勿体ないと思えたが、その間一度も海に入らず甲羅干しを楽しんでいた。

夜8時から開くホテルでの夕食で、昼間近くにいた中年夫婦が「良ければ一緒に」というので同席した。一通り通りの会話の後、私が「何日いるのか」と聞くと「4日ほど海浜でのんびり過ごすためにきた。あなたが何回も泳ぐのには驚いた。泳ぐのならここでなくてもプールがあるし、ここではゆっくりバカンスを楽しんだら良いのに」と言う。私とすればもっと泳ぎたいところを我慢していたのに。

2日目まではなんとか同じように過ごせたが、3日目になると寝て食べて甲羅干しをしての生活に飽きてしまい、すでにworkaholic(仕事中毒)も重症になっていることに気づいた。 3日目の夕方には辛抱し切れなくて小さな町の探索に出かけた。町の中心からから少し離れたBarがあったので入った。イタリアのBarは、ご承知の通り、ちょっとしたテーブルもあるが、ワインやビール、エスプレッソなど立ち飲みもできる気軽な場所だ。入ると店の亭主にドイツ語で何やらどなっている子連れの夫婦がいた。店を見渡すと彼らの指さしている先に好物のオレンジと手で回すジューサーがある。早速 私が”aranciata, spremuta” (絞ったオレンジジュース)と注文すると、即座に”Certo“ (チェルトCertainly)とグラスに絞ってくれた。ドイツ人の父親はそれを見て驚き怒った顔で、私がどうやら理解できるドイツ語で「さっきからオレンジを指してこれを搾ってくれと何度も頼むのに知らぬ顔をする。それだのにあなたの一言でサッと出て来た。イタリア語らしいが何と言ったか教えてくれ」と言う。私が「aranciata—」と言うとそれを真似て3本指を出してdreiと頼むと、亭主は「やむを得ぬ」といった風情でオレンジ3個を絞って紙コップで渡した。父親は私に「意地の悪い亭主だ」と怒りながら出ていった。それを見届け、亭主は「Tedeschi(ドイツ人たち)は皆キャンピングカーでここに来て1週間以上も滞在し海浜で遊んでいく。それは良いが、その間ホテルもレストランも利用せず食材を買うだけで自炊し、Barでも飲み水を買うくらいでこの町に残すのは ”金” ではなく “ゴミ屑”だけだ。しかもイタリア語も片言くらいしゃべれば気も済むが全く使おうとはせず物を買うのもドイツ語しか使わない。何が欲しいぐらいは分かるが意地をはって分からぬふりをしたのだ」と私にこぼしながら言い訳をした。Sardegnaでイタリア流のバカンスの感じが少しつかめ、片言だがイタリア語が役立って満足した。

文字通りの「郷に入れば郷に従え」(When in Rome do as the Romans. Quando a Roma vai, fa come vedrai)だった。

blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/ 2011-11-18 16:25

 

 

 

 

15話 ブロウニクとGoldsmith

テレビの世界遺産を見ていて、その一つのDubrovnikへ行ったことを思いだした。それは南部イタリアへの長期出張していた1974年のことだ。旅行社に相談すると、有名ではないがと共産圏ユーゴスラビアのDubrovnik訪問を薦めた。当時は米ソ間デタント(緊張緩和)時代だったが共産圏入国は依然厳しく、圏内の滞在は、ビザ不要で厳戒中の東ベルリン博物館の見学と欧州往復でのモスクワ空港内だけだった。「数日の観光訪問だと近くのBariからビザなしで簡単に行ける」と言うので圏内の状況を是非見聞したくなった。

Bariで換金の際、ドルへの買い戻しは極めて不利で替え過ぎないようにと確認されたが、共産圏で珍しい土産もあろうかと、それがGoldsmithに結びつくとはつゆ思わず、かえって多めに換金した。 夜にBariで乗船すると翌朝にはアドリア海対岸のDubrovnikに着いた。街では英語は通じず、ホテルまではタクシーで行ったが随分と安く、渡したチップは受け取らなかった。ホテルは部屋から旧市街が見える丘の上にあり、中世にはラグーサの名でヴェニスと競い合った港だけに、眼下の旧市街や城壁の眺めは素晴らしかった。

荷物を置くとすぐ街一番の目抜き通りへタクシーで出かけた。それは全長200mあまりと短く、両側に店舗の並んだ人影の少ない街路だった。珍しいお土産があるかと店先を覗きながらその通りを何往復かした。しかし、国営店なのかどの店も愛想は悪く陳列品は西欧社会で見る安価品のみで、品質やデザインも劣り購買意欲を全くそそらない。どうやら木彫り専門店で荷物を積んだ牛を見つけ買ったが三つで千円もしない。これでは再換金で損をする羽目にはなると、もう一度その通りの端から端まで探した。すると、土産物店の一画を区切り作業場も兼ねた店で初老の職人が金細工をしている。「これが英語で言うGoldsmithだ。共産圏にもあるのだ!」と入ると、アメリカ人風の年配の婦人が細工に見入っていて、その前の小さなガラス棚にはブローチなど手製の金細工が並んでいる。職人に英語で話しかけると「分からない」と身振りをする。駄目で元々と、下手なイタリア語で話しかけると「日本人でイタリア語がわかるとは珍しい」と、細工をしながら機嫌良く「前大戦でイタリア軍が駐留し言葉を覚えた。共産主義の国でも特殊技能者は収入に応じて税金を払えば自分で店を持って商売ができる」などと話してくれた。よく見ると細工の腕も良く、値段もイタリアや以前に訪れたリスボンの宝石店などに比べ遙かに安い。これなら買う値打ちはあると幾つかを選び始めた。すると例のアメリカの婦人が「いま何語で話したの? この店でブローチを買おうかと随分迷って問いかけるが英語が通じず困っていた。」と言う。英・伊の通訳をすると彼女は安心し喜んで幾つかを買った。私も共産圏での事情も少し分かり、再換金も不必要となる良い記念品の買い物ができた。丘の上のホテルも設備も欧州並みに立派なわりには安価でチップは不要だった。翌日は旧市街を一望する丘にタクシーで登り、そこからの展望を楽しんだ。ケーブルカーとその駅があったが動いていなかったように記憶する。旧く由緒ある城壁や建物を見学し堪能した二日だった。

その後、テレビでそのDubrovnikが1991年頃に激しく砲撃されて美しい街並みが崩れているのを知り残念に思ったことだった。今回これを書くに当たりウェブサイトで調べると、「(私の訪問後の)1979年に世界遺産となったこと、内戦の砲撃での市街破壊はその後復元されたこと、旧い目抜き通りの名はプラザ通りで、丘はスルジ山と言うこと」を知った。また、写真を見ると、私が訪ねた旧い街並みは見事に再現され観光客で溢れていた。

「共産圏」と言う言葉も聞かなくなって久しい。したがって、「Dubrovnikがこのように誰もが自由に行ける有名な観光地となったことは喜ばしい」とか、「あのGoldsmithの職人がいまも健在ならば、その言葉の端々にうかがわれた不自由な共産圏からの解放と、訪問客の多さにさぞ驚き喜ぶだろう」と思うが、そう思える人も、もう余りいないのだろう。 blog http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/

 

第16話 ドレミの由来 

  -これは南イタリアで過ごして20年近く経ってのことだがここに紹介する-

ドレミの由来【大学勤務の頃-4-】   いまから20年ほど前の大学在勤中のこと。半年の研究休暇アメリカに行く途次に一週間の北イタリア旅行を計画した。 その前の会社勤務で2年ほどイタリア駐在をして家内と私は言葉も若干は話せるようになっていたので、旅の最初であるジェノアと最後のローマ以外でのホテル予約はせずに、気の向くままに行った場所でペンシオーネ(民宿)を探しては泊まる気楽な旅を計画した。事前に幾つかの訪問予定地を考えたがその中にArezzoの町を含めた。それはイタリア語も話し音楽に詳しいスペイン語担当のペール人の同僚教授の助言によるものだった。彼は「9世紀から10世紀にかけて活躍したベネディクト派修道院の僧 Guido da’Arezzoがそれまでなかった音楽の表記法である4本の線上に四角な音符を初めて用いた。それが現在の楽譜の表記法であるドレミファの5線譜の原型となったとする説が有力だ。名前が示すとおり、Guido は Arezzo の出身で、自分は彼が生まれて育ったと称する家を見てきた。その家の入り口の上に、4線の楽譜とドレミファソラシ の額が掲げてあり、それだけが見るべきものと言った所だが、通り道なので是非寄ったら良い」と言う。 Arezzoのことも含め、そのほか訪問を予定したオルヴィエートや他の都市のことなどを調べようと思った。当時、そのような調べ物は一仕事であった。大学の図書館を利用し、そこでまず関連の書物を図書カードで当たり、それらの書物を取り出して調べるのに一日は優に要したと記憶する。   旅では最初にジェノアを見物し、200kmほど南東のフィレンツェにも2泊してイタリア美術を堪能した後、列車でそこから60kmほどの Arezzo と言う駅で列車を降りた。イタリアの街は何処も似たような風景だが、そこも煉瓦作りの建物が並んだ街だった。Guido da’Arezzoの肝心の家は何処にあるかを訊いてどうやら辿り着けた。記憶では緩やかな坂道を登り始める左側の、それと言われなければ見過ごすような煉瓦壁一郭に門らしき構えがあり、その上に額が掲げられ、ラテン語で「ここでda’Arezzoが生まれ育った」とあった。その下に、4本の横線と Ut re mi fa sol la の字と四角い符号が少しずつ高くなるような位置に記されているのが見えるだけで、門の中には入れなかった。確かに同僚の言うとおりで、ドレミの由来に付いて学びそのゆかりの場所を訪ねることはできた。しかし、Arezzoの市は観光にそれほど力を入れていた風でもなく、関連の見学は2時間もかからずに済んで、折角来たのだからと街で昼食を楽しんだ。ちょうど夏の真っ盛りのフェスタ(お祭り)だったらしく、賑わっていた公園の一隅で、ラグビーボールの形をした大きなスイカの切り売りが冷たく美味しかった。ドレミの由来と言われるものを見た満足感と共に次の場所のオルヴィエートへと列車で発ってその短い訪問は終わった。   これらを書くに当たり、昔のことなので幾つかのことを確かめたいと思った。いまは驚くほど便利な世の中となったものだ。当時だと大学の図書館に行き、まず関連図書名を調べ、それらの本のなかから関連記事を見つけるなど一日掛かって調べたであろうことも、いまは机上のパソコンのキーを叩くと瞬時にその場で関連事項が画面に出てくる。   そのようにして「ドレミの由来」をWikipediaで調べると、幾つかの記事が出てくる。それらをまとめると概要次のようになる。「七節からなる聖ヨハネ賛歌のラテン語歌詞の①Ut ueant laxis  ②Resonare fibris  ③Mira gestorum  ④Famuli tuorum  ⑤Solve polluti  ⑥Labii reatum ⑦ Sancte Johannesno  の各節の頭の一つの音が、この賛歌を歌うときには1音ずつ順に音程が上がっている。これは「ドはドーナッツのド、レはレモンのレ—」のようにドレミとその音階が一致していることと同じだろう。なお、①Utは発音しにくいのでDominius (神)のdoになった」と言うことのようだ。   調べたついでに Google map でイタリアの地図やArezzoの市街図、それに市内要所の写真なども楽しめた。しかし、それらを調べる気になったのも、さらに言えば、ドレミの由来やその市名を知ったのも、短時間ながらそのとき同地を訪問できたからだろう。でも、調べ方が良くないのか、ネット上の市の広報でも家の場所や写真は見つけられなかったのは残念だ。

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