著作と論文、ブログの2017年以降、エッセイなどを纏めました

ことばの話

言葉のはなし

 

1 英語の “a” の発音 【言葉のはなし-1-】.. 1

2 カタカナ文字 【言葉のはなし-2-】.. 2

3 世界あちこちでの英語 【言葉のはなし-3-】.. 3

4日本語と漢字、コンフューシアスとは? 【言葉のはなし-4-】.. 4

5 故郷とふるさと言葉 【言葉のはなし-5-】.. 6

6主語のあいまいな日本語【ことばの話-6-】.. 7

7 連続した母音の日本語【言葉のはなし-7-】.. 8

8通訳事始めとその失敗談【言葉のはなし-8-】.. 9

9言葉づかいと相づち【言葉のはなし-9-】.. 10

10日本語の表記と発音 【言葉のはなし-10-】.. 11

 

1 英語の “a” の発音 【言葉のはなし-1-】

イタリアでの技術協力の使用言語を英語としたので、双方のメンバーは急遽英会話の勉強を始めた。当方は大卒の入社後5~10年のSEに渡航までの2ヶ月間は出勤前1時間の英会話特訓クラスを課す一方、相手方には英語とは無縁だったと言う高卒担当者30名ほどへの英会話教育を依頼した。2ヶ月後の協力が始まって驚いたことに、前に会ったときほとんど英語が話せなかった相手メンバーがその短期間に英会話で上達していたことだ。

彼らは「英語は発音を除けば簡単だ。何故なら、単語の多くは語源がラテン系で意味はかなり推測できるし、文法は大変に簡単だ」と言う。私の生半可にかじった知識でも、独語やラテン系の仏語・スペイン語・ポルトガル語では、名詞には男性・女性の区別があるが英語にはない。伊語も含めラテン系語では、動詞の変化は時制だけでも現在・半過去・遠過去・未来があり、それと命令法・接続法・条件法のそれぞれで6個の人称変化があって、活用だけでも20以上覚えねばならないのに比し、確かに英語の文法は簡単と言える。しかし、彼らは「発音は別だ。ラテン系語や独語では発音はルール通りだが、英語は無茶苦茶だ。」と言う。そう言われれば、例を “a” で考えると “ask”, “all”, “cat”, “many”, walk”, “want” 等々、それぞれ違う発音の仕方で、なるほど単語ごとに固有の発音を覚える必要があると言えそうだ。しかも、後で知った “My Fair Lady” で、周知のこととなったように London 市内でもその発音が異なり、ましてや話す国でも違う。以下にそのような発音の差異も知らなかった頃のオーストラリア(豪州)英語にまつわる失敗談を紹介しよう。

入社直後、豪州からの訪問者の通訳で製鉄所内を案内した。一人が「ウォット ダイ オブ ユア パイ ダイ?」と訊く。私は意味が取れず何度も訊きなおすがそうしか聞こえない。すると彼は少し考えて「トゥダイ イズ マンダイ」と言う。「エ??今日は月曜日だ!すると “ア” を “エ” に置き換え—–、即座に “23rd of each month” と答えたら彼は「オーカイ(OK)」と答えたものだ。

その翌年の米国留学先で豪州人にまつわるjokeを聞いた。それは「サンフランシスコへ入港した客船を降りる老齢の婦人に、出迎えの人が “where do you go?” と訊ねたら、”I want to go to hospital, to die” と答えたのでびっくりしたが、それは “today” が “to die” と聞こえたので「病院に死ぬために行く」と聞こえたからと言うはなしだった。

それから20年ほど経って君津製鉄所に豪州の人たちを迎えた。その質疑応答の中で「ところで世界的に有名なジャイカイ活動はどう展開しているか?」との質問があり、これも何度も聞き返してもわからず “How to spell” と訊くと “No spelling, just J.K.” とJ.K.の字を描いた。「アア、Jishu Kanri 自主管理のことかとわかった.「エ」が「ア」だと頭の中で置き換えていたのだが、まさか “H I J K” を「アイチ・アイ・ジャイ・カイ」と読み、しかも豪州流に読めば「ア」が四つも続くとは! そこまでは頭が回らなかった。

それにも懲りず、また10年近く後のはなしだ。学生をつれて豪州に一ヶ月滞在した。今度こそは「エ」は「ア」なのだと「まじない」のように自分に言い聞かせ肝に銘じて、なんとか終わりの週まで無難に過ごせた。そう思いながら、ガソリンスタンドでレンタカーに給油し終わった途端、従業員が突然 “How to pie ? “「と訊く。一瞬「あれ、菓子屋でもないのに何故パイなのか?」と戸惑っていたら彼はまた “Cash or card?” と問いかけてきた。そこで「まじないが」が戻って、「アア “pay” のことかと “Cash please” と答えたものだ。

これは4年近く前のはなしだが、今度はニュージーランド(NZ)の南島で二番目に大きい定住人口4万人の大学町 Dunedin で、オタゴ湾を見晴らせる家を借り3ヶ月ほど生活した。大学・植物園・裁判所・刑務所・博物館—と何でも歩ける距離にある便利な街なかの散歩とテレビを楽しんだ時のことだ。NZの連続テレビ劇はBBC放送で本場英語も聞けたしNZでは “a” の発音は「ア」「エ」半々で今回はそれでの失敗はなかった。でも、スコットランド人の子孫が多いこの町の発音は一種独特で日本語ではダニーデンと書くし、そう聞こえるが、彼らの発音を注意深く聴くとDunedinのスペルに近い発音にも聞こえる。英語の母音は「ア」とか「エ」とか言えるような単純なものではないのだと改めて思い知らされた。

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2 カタカナ文字 【言葉のはなし-2-】

最近は日常生活でカタカナ文字なしでは済まされない。記憶装置の単位などマイクロ、メガ、ギガなど日常の生活では遭遇しなかった微小・巨大な単位まで加わっているが、ここではカタカナ文字について書くことにする。

コンピュータ分野では、その生まれがアメリカであることから、当然ながらカタカナの大氾濫である。2000年頃に私が担当していたコンピュータ関連の授業でも、マウス・ドラグ・バイト等々多くの用語が英語であった。私には、カナ文字を見るとその元となった単語は何だったのかと考える癖がある。それに同じカタカナ文字でも、元となる英語ではマウス(mouse、mouth)、ドラグ(drag、drug)、バイト(byte、bite)などのように異なる。そのようなわけで、私の情報処理の授業では黒板にはカタカナは一切使わずにその元となった英単語で板書し、後で辞書を引くように学生には言っていた。私としてはコンピュータ分野のことと同時にせめて英単語も覚えて欲しいと思ってのことでもあったが、学生にはあまり評判が良くなかったらしい。たまには、私の意図に賛同する学生もいたが、多くからは「先生の授業では、英単語の板書が英語の授業よりも多い」といわれていたようだ。

それにしても、2000年前後の自動車業界におけるカタカナ文字の氾濫は異常であったと思う。その頃、自動車を買い換えることになっていくつかの車種のパンフレットを見た。その印刷の綺麗なこともさることながら、なかにある説明文でのカタカナ文字の羅列には驚いた。予防安全という項目では、プロジェクタランプ、に始まって、フォグランプ、コーナーリングランプ等々ほぼ全項目がカタカナ文字である。多くは英語の単語に結び付け何を意味するかがわかったがチルトステアリングとなるとチルト?あtilt かと思いつくのに少し時間がかかった。フロントドアカーテシランプに至ってはしばらく考え込んでしまった。カー(車?)テシ(??)。写真をみて,どうやら前のドアをあけたらしばらくの間ドアの内側の足下を照らすランプらしいことがわかり、やっとcourtesyという単語に結び付けることができ納得できた。と同時に自動車会社の人が何と書くべきか悩んで結局カタカナ文字にしたのだろうと同情した。

それと同時に、カタカナ文字のスペルが気になり始めたのがいつからだったのかを思い出した。昔、と言っても昭和32年(1957年)頃のことだった。当時私の勤務していた製鉄所に最新設備を持った厚板工場が建設されることなり、バンティングという現場経験の豊富なアメリカ人の技師が操業指導にやってきた。彼は圧延機やその付属設備の運転を教えに来たのだが本当に何でも良く知っているのには驚いた。新工場の稼働後に始まったトイレの改修まで彼の発想かと勘ぐられたほどだ。ある日、新工場のトイレ(当時は便所と言ったと思うが)改修が済んだというので行ってみた。全体が白く塗られ明るくなったのにも驚いたが、なかにある扉がすべて開いていて、その扉に庶務掛長(官営の名残で係長のことをそう書いた。知らない人はカケチョウってなんですかと聞いたものだ)名で「このトイレは〘ラバトリヒンジ〙方式という新式のもので、使用していないときには扉が開いているので閉まらなくても心配なく」といった趣旨の麗々しい張り紙がしてあった。いまの人は想像が付くかも知らないが、当時の私にはラバトリヒンジとは何のことなのか気になって密かに辞書を引いたがスペルがわからずなぞのままだった。

その翌年アメリカに留学して”lavatory”とある所を覗いたら便所だった。また計装機器の授業で”hinge”と言うのが蝶番であることがわかったとき、それまで気になっていたラバトリヒンジとは便所の形式ではなくその扉の付け方のことだったのだと納得できた。きっと掛長さんも、いまとなっては元の英語まであの技師から聞いたのかつまびらかではないが、ハイカラぶったカタカナ文字を使って張り出したのだろう。そう思ったら、それまでのなぞ解きができてすっきりしたと同時に、その時以来カタカナ文字の元のスペル探しが癖になってしまった。また、コンピュータ分野でもカタカナ文字の元は英語とは限らないことも、マイクロフィシュ(Microfiche、fiche:仏語)などの例で知った。

blog   http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-22 10:32

 

3 世界あちこちでの英語 【言葉のはなし-3-】

昔話だが、大学3年時に任意科目の米会話と英会話の授業を選択した。連続した時間帯だったので、前の時間に習ったばかりの表現をすると ”that’s American English” と訂正された。私にはer とかarとか米語の巻き舌風の発音が苦手だったので英会話の方が楽だった。その違いについては1962年に欧州出張で London へ寄ったとき実感した。

小倉の教会に派遣された宣教師と親しくなりその勧めで彼の両親の家で一泊した。彼の父親はインドの鉄道会社を退職した人で年齢は違ったがエンジニア同志ですぐに打ち解けた。一通り挨拶が済んだところで子息のことが話題となった。”your son’s house is located near the —“ と話しはじめると「”is located”は大邸宅の場合で”is”だけで充分だ」という。同感だったが,「飛行機の座席に”air bag is located under your seat”とあるが?(locateは最近使われていない)」と訊いたら”That’s American”と一蹴された。そして「Yoshiの英語は充分通じるが、明日からの会社訪問では留学で親しんだ米国風よりも英国風の言い回しの方が望ましい。良ければ随時指摘するが?」とのことで、是非にとお願いした。すると、”not street-car but tram”, “not sub-way but tube”, ”not elevator but lift” 等々と矢継ぎ早に訂正された。あげくに”advertisement” を「アドヴァタイズメント」と発音すると「その米語の”タイズ”のズが濁って耳障りだ。英国ではアドヴァティスメントと上品で綺麗に発音する」と言う。そう言われればそのような気もした。その一晩のレッスンのお陰で英国風と米国風の差異が少し学べ、効果の程は別として、それに留意しながら英国鉄鋼会社の幹部食堂での、米国では考えられなかったアルコール付きの、昼食が楽しめた。

イタリアでの仕事でもそれぞれの英語に関連する体験をした。伊語も日本語と同じく母音が多く英語の訛り方も似ているようだ。相手の組織部長が、共通業務用語の英語で「私はMr. Inoueと一緒に仕事をし始めて英語が急に上達したように思う。前にアメリカのコンサルタントと話した時は余り理解できなかったが、この3ヶ月間の一緒の仕事でほとんどが聞き取れるし話すのも楽になった」という。私は「それは疑問と思うよ。私にも米人の話は聞き取りにくいから」と答えた。彼は「明日ジェノア本社で米人と会うのでそれが実証できる」と勇んで出かけた。翌週来社した彼に会うと「やはりいわれたとおり米人の英語は良く聞き取れなかった]としょんぼり返事をした。そこで「日本語と伊語では母音に関して似通っていて英語の訛り方に共通点はあろうが、二人にとっては英語が外国語であったのでわかりやすかったのだろう。」と彼と同時に自分を慰めた。

次ぎに類した実感をしたのは1984年にJICA依頼で派遣されたシンガポールでのことだった。システム監査に関する40分ほどの講演を英語で行った後、10分ほどの質疑応答の時間になった。現地の人から受けた幾つかの質問は英語らしい発音だがどうしても意味が取れない。隣席のシンガポールの役人に助けを求めると、即座にそれを彼の英語で言い直してくれた。シンガポールの人は日常に英語を使うのでそれが訛って独特の現地英語になったらしい。そのような地方化された英語を”pidgin English”と言うそうだ。何のことはないシンガポール英語から英語への通訳が必要だったのだ。

もう一つの世界あちこちの英語体験は、2006年7月に家内と2週間ほどアイスランドのgroup tourへ参加したときだ。英語ガイド付きバスで大きな同島を一周したが、参加者は英語を母国語とする英・米・豪・ニュージーランド人と、それに英語が外国語の我々夫婦とアイスランド人のガイド兼ドライバーで計13名だった。高緯度で日暮れが真夜中近く、長い日中に火山・滝・氷河・海など日本と違い昔ながらの自然のまま残っている風景を楽しんだ後、夕方7時頃から始まる夕食後、夜長の10時過ぎまでガイドも含めたお喋りの時間になる。皆が話題を提供し、それをめぐってそれぞれの訛りの英語でお喋りが始まる。私どもも何とか言葉に苦労しながら仲間入りする。イギリス人のハイソサエティの英語についての講釈など、皆が豊富な話題で毎夕を楽しんだ。各国それぞれ固有の訛りに慣れると、それは日本語の方言みたいなもので、全員参加で会話を楽しめたのは、私どもを除いてはそれぞれが母国語だと思っている世界あちこちの英語語のお陰だと実感した。

blog  http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-11-24 19:00

 

4日本語と漢字、コンフューシアスとは? 【言葉のはなし-4-】

戦後一時期、日本語のローマ字化が叫ばれたこともあるが実現せずに良かったと思う。日本語への漢字の取り込み方は融通無碍で極めて便利と思うことが多いが反面不便なこともある。常識的なことながら、日本に漢字が定着するにはその読み方に「漢音」と「呉音」があるように長い年月を要したのだろう。漢字は本来表意文字だが、これに「万葉仮名」のように当時の漢字本来の読み方に似せて「やまとことば」を表記した発音記号的な「訓読み」が加わり、日本独特の使い方を持ったのだろう。

一方、表意文字の意味では日中とも共通だが、日本語と違い中国語では一つの漢字の読み方は一つである。それを確認できたのは、新日鐵からの上海宝山製鉄所への技術協力に際して中国語を少し学んだ時である。さらに、大学在職中に香港の提携大学学長就任式に招かれた席でより強く感じた。それは、配布された式次第に就任演説内容の英文および漢字文とスピーチは英語・北京語・広東語でなされるとあり、式では学長が英文スピーチの後、漢字で書かれた同じ文章を北京語と広東語の全く違う発音で読んだからである。それを聞いていて漢字が本家本元の中国では表意文字としてのみ通用するが、それを借用した日本では表意記号と表音記号の両方の便利さを享受していることを改めて思った。

中国や台湾を旅行すると看板が漢字で書かれ意味をとり易く安心感を覚える。しかし、初めての韓国訪問時のハングルが読めなかった不安感から、二回目にはハングル字を本で学び、一応発音はできたが意味はわからず、発音できなくも意味が推察できる漢字のありがたさを思った。韓国語でも当初は漢字を韓国語の表音記号にしようと試みたようだが、韓国語の発音が複雑でもっぱら表意記号としてのみ用い、それが韓国語古来の発音記号としてのハングル文字発明につながったと記述されていたように記憶する。韓国の提携大学教授が、「ハングルだと同音異語が多いのは不便だが、漢字が使えれば違いが分かる」といっていたのもうなずけた。それに比べると日本語での漢字は、本来の意の表意記号を勝手に表意記号としても用いて便利な面が多い。学生時代に機械工学の授業で「漢字使用のお陰で工学分野も大いに助かっている。情緒ではヤマトコトバが勝っているがそれで飛行機が『そらとぶからくり』では冗長で授業にならない」といわれたのには全く同意見である。

しかし日本流の漢字利用では不便なことも結構ある。大学在職中に中国からの留学学院生へ宿題の整理手伝いを依頼したら「それは無理です」という。理由を聞くと「日本では『伊達』、『長谷川』など姓の読み方にルールがなく、中国と違い姓が何百とあるからです」という。まさにその通りだ。そして名前に到っては自分でも驚いたことがある。友人に「子どもさんの名前は?」と訊くと「まだ決めていない」、「まだ届けてないの」、「届けた」、「なら決めたのじゃない」、「漢字は決めて届けた」、「エ?」、「読み方はそのうち考える」との返事だ。いわれてみると皆はフリガナまでは届けてはいない。それにしても読み方は勝手なのだろうかとの疑問は残る。関連して、イタリア駐在の最初のころ”Yoshihiro Inoue” 宛てに会社から皆の給与の電報為替送金があった。提出を求められたパスポートは”Yoshisuke Inoue”名義だ。郵便局で「名前は漢字で届けてあり読み方はそのようにも読める」といっては見たものの通るわけもない。このときは漢字の不便さを思った。  さらにさかのぼって、留学生の頃に友人仲間の議論に入ったら東洋人らしい人名が頻繁に出る。「それは誰だ」と訊くと「東洋人で知らないのか?」と軽蔑の眼で見る。「いつ頃の人だ」と訊いていくとどうやら孔子のことだと思えたのでスペルを訊いて”Confucius”と辞書を引くとその通り。「それなら勿論知っているよ」と言うこととなった。中国の歴史が話題になることは頻繁ではなかったが、「唐」とか「宋」とか国名は想像が付いても人名は漢字の日本読みで覚えているばかりに英語になると大いに不自由を感じた。中国の人名の中国後読みのカナ表示も時には必要だと思う。最近は中国の留学生も彼らの中国歴史の認識は別として簡略体で私の覚えている難しい字での人名など筆談でも通じそうにない。

blog   http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2011-12-23 17:58

 

5 故郷とふるさと言葉 【言葉のはなし-5-】

私は10歳から13歳までを関西で、その期間を除く幼時から高校までを九州の佐世保で過ごした。したがって生まれ故郷は九州だが、ふるさと言葉には九州弁に加え関西弁も入る。それらは使う機会がないので普段は出てこない。でも、話し相手の顔を思い浮かべたり実際に会ったりすると、当然のようにその当時の言葉が出てくる。

この4月には、佐世保で中学時代の同級会があるので、それに出ようと友人に電話をすると自然に「久しぶりバッテン元気にシトルトネ。」となり「ウン、何とか過ゴシヨルバイ」といった返事が帰って、途端にお互いが気持ちの上ではもう10歳代に戻っている。その頃の友人に東京でのクラス会で会うと、最初少しの間は標準語でしゃべるが、そのうちに他人行儀でもどかしくなり、気が付けば佐世保弁丸出しで気を許しあう感じとなる。  相手が関西の友人であれば、すぐに「久しぶりの電話ヤケド、この頃はドナイシトンネン」「まあ、元気ヤデ」となる。単語でも方言でないと意味は通じるが感じが出ないこともある。風呂や炬燵など肌を通しての感じは、関東でいう「暖かい」ではなく「ぬくい(温い)」がぴったりとくるなど好例だ。

26歳から2年間生活で使うことになった英語もそれに似ていて、帰国して日常は使わくなっていても、アメリカに滞在すると二日目くらいから夢に出てくる皆が英語でしゃべるようになる。でも、留学直後のオリエンテーションでの日本人4人の間では、早く英語による思考となるように日本語でなく不自由ながら英語のみを使おうと約束した。しかし、3週間も経つと皆が「腹ふくるる」思いとなり、誰いうとなく「今日だけは日本語で話そう」となった。その途端、皆が堰を切ったように一斉に日本語でいいたいことを存分に吐き出し始めたのは壮観であり異様だった。後で「やっとせいせいした」と皆が笑顔になったが印象深く思い出される。英会話とは縁遠い今でも、英米人と会えば自然と英語がでてくるが日本語ほど細かくは感情を伝えられないのは、標準語とふるさとに若干類似している。

でも、その英語でさえも懐かしくなることがある。イタリアでは3年近く住んだが仕事は英語を使い、イタリア語は3か月弱の会話クラスでの学習と英語が通じない人との会話で済ませたので、必要最小限の意思疎通はできるがヒアリングでは不自由をしていた。そのような状況でイギリスに出張して、英語でテレビを見、会話がかなり自由にできた時は、あたかもふるさと言葉を聞いたような安心感が湧き出た。ドイツ語は読んだ本のページ数ではイタリア語のそれよりずっと多いのだが会話では使ったことがない。その点イタリア語は不自由ながらそれを生活で使ったので、経験として覚えた言葉は長い間全く使ってなくてもその場になると自然に口から出てくるから不思議だ。これも比較の問題でドイツ語より遙かにふるさと言葉であるが、自由さにおいて日本語は勿論英語には及ばない。

それで思い出されるのは20年ほど前の大学での授業のことだ。学生が「センセの授業は関東弁ヤヨッテニオモロウナイ。関西弁ならエエノニ」という。そこで茶目っ気を出して「ホナラ関西弁で話ソカ」と数分間関西弁で授業を続け、今度は九州弁で、次は英語弁でといって数分ずつ、その後は少々怪しいイタリア弁で少し続けた。学生は日本語以外のが外国語も方言といったことに少し驚いたようだ。しかし、その日本語の標準語と方言、それに会話を体験した外国語のいずれもが、使いこなせる自由度や感情を伝える度合いは相当に異なるが、私の頭の中では日本語の方言のように身体の経験として記憶されていて、それが望まれる環境になると自然と切り替わって話せるのだということにその時に初めて気付いた。

blog     http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-03-21 21:19

 

6主語のあいまいな日本語【ことばの話-6-】

まず、話題が1968年頃のしかもトイレの事件で始まることへのお許しを乞う。その頃、君津製鉄所の建設に先立ち、S氏を団長に5人で欧米へ約3週間の調査に出かけた。冷戦最中の当時、ヨーロッパへ飛ぶにはソ連領は通過できなくて、アンカレッジ経由であった。北極上空を飛ぶときには航空会社が北極通過の証明書を呉れた時代だ。私とK君とは、まずスウェーデンの製鉄所へ行くべくコペンハーゲンで乗り換えた。早朝に飛行場に着いたので乗り換えまで時間がある。前回の出張時、トイレ入り口におばさんが頑張っていて小銭がなくて困ったことをK君に話して、二人で換金に行きコインも混ぜて貰った。今回は困らないぞとばかりトイレに行くとなんと今回は番人のおばさんがいない。肩すかしを喰った感じで入ったが、お金とコインをK君に預けっぱなしだったのがこの話の始まりだ。

ここで、話はそれるがこの背景となる話を紹介させていただきたい。その少し前にブームとなった MIS(経営情報システム)の全社計画作成のため、K君も含め気心のわかった7人ほどで、昼間は本社各部や各製鉄所を廻って調査をし、夜は各地の旅館でそれをまとめる3ヶ月近くの合宿の厳しい仕事をしていた頃のことだ。夜間に及ぶ旅館一室に集まってのまとめ仕事の合間には他愛もないことを話題としてなごむ。トイレに要する時間もその一つだった。各人まちまちだが、どうやら最短は私の2分くらい、最長はK君の20分くらいということになった。すると、K君は「井上さんのは鳥だ。鳥は軽くして飛ぶために少し溜まると一瞬で済ます。私のはサイダーだ」という。理由を聞きと、彼は平然として「皆さん20分もしゃがみ続けたらすぐにわかりますよ。足が段々としびれてきてジンジンする様はまさにサイダーの感じですよ。」(ちなみにその頃の旅館のトイレは和式しかないのが普通だった)との答えに「なーるほど」と合点した次第だ。以来、我々仲間では、少し長めのトイレへ行くことを「サイダーに行く」ということになった。

さて、本題に戻り、そのK君と一緒にコペンハーゲンのトイレに入った私は「鳥のそれ」ですぐに済んだ。外で待とうとトイレの入り口に行くと、入るときには早朝で居なかったおばさんが使用料としての心付けを取るために待っている。今度こそはと用意したのに、肝心のコインはK君のポケットの中だ。「サイダー」の彼なので20分はかかると思い「おばさんが小銭徴収に待ってるので少し早めに頼む」と声をかかた。「ウン、わかった」との返事。することもなく、トイレの中でポケーと待つことの退屈さ。15分くらい経ったとき、ついに待ちかねて「未だか?」。答えは「出たら出る!」。一瞬「??何が出たら何が出るのか」を考えたあと、独りで大笑いをした。

最近でのこれに類した話では、東北大震災直後の旧友の集まりで、自然に地震が起こったときが話題となった。A 氏が「女房と家にいた。起きてすぐ—–」という。B氏が「あれは、昼でなかったの?」。A 氏「そうだよ。どうして?」。B 氏他全員「??」。A 氏「??あ、そうか、起きてすぐというのは地震が起きてすぐということだよ。」皆「そうか、そうだよね」で爆笑。

私が少し喋れる英語やイタリア語に翻訳しようとしてもこれらの例のような主語なしのジョークでは一寸無理だ。英語は日記のとき以外は主語が必要だし、イタリア語とかそれに近いラテン系の言葉では主語は省けるがそれは人称別の動詞変化で主語を明確に推測できるからだ。日本語には、本来、軽重の度合いの異なる敬語とそれに男女で違う動詞・単語や言い回しなどで主語を明示せずともそれをおしはかる奥ゆかしさがあったが、文法は変わらずにその面だけが急激に簡略化されてきたのが今回紹介したようなジョークが生まれる一因であるようにも考えられるのだが。これは最近の言葉の乱れに不満な私のこじつけ過ぎか——。

blog     http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-03-24 08:35

 

7 連続した母音の日本語【言葉のはなし-7-】

最近は、 “Mottainai” とか “Tsunami”など国際的に通用する日本語の単語も増えてきた。しかし、1950年代終わりのアメリカでは違った。また、普通は意識しないが、ローマ字で読み書きする時のみ気付くこともある。 ここではそのような珍妙な経験を紹介しよう。

私の名前Yoshisukeは、アメリカ人には長く過ぎ単調で、正しい発音を期待するのは無理だ。そこで、 “Yoshi” で通したが不自由はなかった。だが、それよりも簡単に思える苗字のInoueが意外に彼らには難しいらしく、滞在2年間でまともに発音されたことは皆無に近かった。ほとんどの場合、アイノイ、イヌー、イニューなどと、しかも変なアクセントが付いて呼ばれた。「ギョエテとはおれのことかゲーテ言い」ではないが、自分の名前を呼ばれるのが予測されるときは、読む人の苦労に敬意を表する意味と発音を訂正しても無理だとわかっていたので、少しでもそれと想像できれば返事することにしていた。ちなみに、卒業式では “Induu Yash Sukii” と妙な節を付けられて呼ばれ証書を受け取った。

名前のスペルでもっとも困ったのは自分の下宿に電話を引いたときのことだ。携帯電話が普及した現在では想像もできないだろうが、当時の日本では、電話を自宅に設置するのは、まず給与半年相当分くらいの高額な電話債券の購入自体が無理だったし、もし購入できても電話線の設置工事に半年以上も待ち高価な電話代を払うという「高嶺の花」だった。しかし、すでに米国ではアパートの各部屋に電話のコネクターがついていた。そのことを訪ねると、友人が「電話で設置を依頼すると翌日から通じるようになると」と言うのには信じがたいことと驚いた。「電話代も高くはないし電話がないと困ることがある」というので、「電話も引ける身分になったぞ」と、少し偉くなったような気持ちで早速研究室の電話を借りて申し込んでみた。すると、住所を聞かれた後、 “What is your fist name?” に続いて, “How to spell” と問う。そこで “Yo-shi-su-ke” と言うと”that’s Impossible” との答えである。「impossible と言われてもそれが名前だから変えようがない」旨を言うと、”Curious name —-“とか言いながら書いている様子だ。やれやれと思う間もなく “Family Name please”と言う。”i, n, o, u, e “と答えると “That’s really impossible!!” と今度は叫ぶ。困った私は “Why?”と訊くと “There are too many and continuous vowels in only one word” と彼が言う。それまで考えたこともなかったが、なるほど言われれば一つの単語5字のなかで母音が4字でしかも o u e と三つもつながっている。しかし、事実そうだから仕方がない。使い慣れない英語で、何とか「不可能と言われてもパスポートもそうなっているのだから替えようもない----」と懸命に言い続けてどうやら受付は終了した。なるほど、翌日にATTの社員が電話機を持ってきてつないだら即座に話せるようになったのは感激だった。同時に、それまで疑問だった有名な米国上院議員Daniel Inouye が “ye” と綴る理由もわかった気がした。

最近になって気付いたのは、国外で私の苗字を読むときに以前の珍妙な発音は少なくそれらしくなってきたことだ。その理由を日本語がポピュラーになったからだろうと思っていた。しかし友人に、Inoueの発音にまつわる笑い話の後で「iをアイでなくイと良く発音ができたね」というと、彼はinuet(アイヌ)から連想したのだそうだ。そう言えば、昔はinuetという単語自体が話題に上ることは少なかったように思えると気付いた。

母音、それも連続する母音との関連で思い出すもう一つのエピソードは、家内のMaiden name についてである。親代わりとなってくれたボンド夫妻がフィアンセの名前はと訊くので “Ohno Motoko” と答えスペルを言うと、まず “Oh no!” と当人が驚き、続いて。”Oh no, Ohno Motoko “と 繰り返し、続いて “In the whole name, there is only one vowel of O ” とまた改めて驚いている風だった。それまでは全く気が付かなかったが、そう言われればそうなのだ。それはローマ字で綴らなければ気付かないことだろう。 ..

blog     http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/2012-06-09 15:36

 

8通訳事始めとその失敗談【言葉のはなし-8-】

通訳で内容をすべて漏らさず正確に伝えるのは至難の業で、私などにはとてもできない。しかし、外人を交えた小人数の英語での会議で、限られた時間内に当方の説明や相手の言い分の要点を双方の出席者に伝えるのに、やむなく自分で通訳らしい役割も果たす場面は多かった。出席の同僚からは「井上さんの話は日本語より英語の方が遙かに理解し易い」とよく言われたものだ。それも一理あると思うのは、日本語では最初から結論の諾否を明確にする必要がなく、また、母語なので語彙や表現方法は自由で、相手の出方を見ながら、話の途中で良い例などを思いつくと回り道をし、それと気付かぬ間に話題はおろか主語、ときにはあろう事か諾否さえも変えることもできる。それに比し、英語では文法上からも最初に「イエスかノーか」の結論を明確に整理して話し始める必要があり、また私の英語力では語彙や言い回し方も不十分で、表現が直截・端的にならざるを得なかったからだ。

「イエスかノーか」で思い出すのは、イタリア駐在のとき同僚の一人が相手から “Mr. Yes but no”とのあだ名を頂戴していた事だ。彼は「相手にいきなり否定はしにくく、言い分を一応 “yes” で同受け止め、それからその言い分に “No” と否定しているのだ」と言う。同僚の多くも外人と接し始めた最初のうちはそうで、次第に “No” から始められるようになったのだが、彼は急速にはその対応変化に馴染めなかったようだ。「私も同じ経験をしたので、その心情は充分に理解できるが、外人相手では混乱させるだけだ」と忠告すると、さすがの彼も不本意であったようだが数日で最初から “no” と言えるようになった。しかし、そのあだ名だけは彼の帰国後もイタリア人の間でずっと残ってしまったのだった。

そのような私が通訳の難しさを「知らぬが仏」で始めたのは英会話に興味を持った大学2年のときだった。半世紀以上も前で、録音テープなどは当然この世に存在せず、ネイティブと話せる機会としてYMCAの英語会話教室と大学の英会話や米国会話の授業が受けられたのが幸運な時代の事だ。その状況で、私と教派は違うがプロテスタント系宣教師のBible classの手伝い依頼が舞い込んできた。自信はなかったが英語で聖書の勉強もできると引き受けた。宣教師は50歳代のミセスで、米国の所属教区から一年間宣教のため東京に派遣されてきたとのこと。早速その20人ほどのクラスに出てみると、皆は私以上に聞き取れぬらしい。私は引き受ける条件として、「私の実力ではいきなり本番は無理なので1時間のクラスの前に予行練習をして欲しい」と申し入れ了承された。始まる前の1時間は当日分の聖書を英語で一緒に読みその解説を聞き質問した。その週一回2時間は一言一句聞き漏らすまいと必死で英語と聖書とに集中した。少し経って、彼女の信仰では、「聖書に書いてあることは旧約の世界創造なども含め一言一句がその通り真理で疑う余地もなく、進化論などはとんでもない」と言うことで、fudamentaristと言われる人の存在も知った。見解を異にする私は予習のときは議論もしたが、クラスでは彼女の言うとおりの通訳に徹した。ただ、信仰心の強さの余り自然に早口になりがちで、再々 “slowly”と頼み、それでも聞き取れなくて “please repeat again” と頼むことも多かった。ある日など、キリストが十字架に付けられる場面になると、彼女は感極まって猛烈な早口で涙ながらに話し始めたので聞き取りにくかった。でも、どう考えても涙をもう一度流させる訳には行かず、そのときだけは、多分こう言ったのだろうと想像も交えて通訳をして冷や汗たらたらだった。

そのような通訳の事始めだったが、一年の宣教が終わり彼女が帰国すると同時にそれも終わった。それを通して、原理主義的ではあるが深い信仰心を知り、英会話と英語聖書講読の貴重な経験が得られた。同時に通訳の難しさが痛感され、以降は留学後も自分の専門分野も含め公式の会合での通訳は可能な限り断る事とした。

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9言葉づかいと相づち【言葉のはなし-9-】

最近ではNHKの番組でも「メッチャ ウマイ」と言う類の言葉づかいや「ウン」の相づちが頻繁に聞かれるようになった。言葉は時代と共に変わるがこれらには余り馴染めない。年代に応じた次のような「言葉づかい」の思い出があるからだろう。

幼児から小学3年まで過ごした佐世保では、先生や親など年長者への「コラシタ(来られた)、イワシタ(言われた)」の丁寧な言い方と、友人間の「キタ(来た)、ユータ(言った)」とを無意識に使ったが、そのあと中学一年まで使った関西弁ではそれが「イカハッタ」「キハッタ」に変わっただけだ。終戦で、また佐世保に戻ったが、家での言葉づかいは方言なりの丁寧調で両親との間ではずっとそれで通し終わった。しかしその頃私の部屋に下宿していた同級生宅を離島に訪ねたとき、彼が両手をつき「父上ただいま戻りました」と挨拶しその口調で話し続けたのには驚いた。島一軒だけの士族だったそうだが。

何とか就職でき半年間の研修後に、20人ほどの多くが年長者の現場責任を託されたときは、皆で気持ちよく仕事を進めるように言葉づかいにはとくに配慮した記憶がある。

その三年後、米国の研究室で机を隣り合わせたトルコから留学の助教授は「両言語ともウラルアルタイ語系で、語順・助詞・母音子音の関係・敬語的表現など類似している」と言う彼は、NY事務所への電話連絡の「ハイ」「エエ」などの私の相づちだけで電話相手の地位を言い当てた。それから3年後の加大バークレー校での著名な心理学者 Searl教授の「意思疎通」の講義で「最初にどう相手を認識するかが何より重要だ。初対面の場合は、外見や会う場所などが話の糸口となる。外見で区別が困難な、例えば徴兵検査場での裸同士と言った極端な場合でも、相手の体格や言葉づかいから職業や教養程度を推定でき、反応を見ながら糸口を見つける。ところで日本語には敬語があり相手の年齢や身分で言葉づかいが違うと文献で見たが、初対面での敬語の使い方を日本人に確認する絶好の機会だ」と私に質問を始めた。私の「年長者には敬語で、年齢不詳なら相応の敬語で年齢推定可能な話題などで少しずつ敬語の程度を変えていく」の答えに「年長者で地位が下なら?」など質問が続き、入社すぐの経験を思い出しながら答えた。「英語とは敬語の有無で配慮の仕方が相当違うようだが、意思疎通の留意点は両国語ともまったく同じだと自信が持てた」と言うのが教授の結論だった。

英語でも相づちには “Is that so?”とか気を使った。ただ、日本では諾否を求められて否定で始めるのが失礼と「ソウデスネ、デモ—」と始めるが、欧米では必ず “Yes” か “No” で始める。イタリアでの仕事で Mr. “Yes, but No” とあだ名された同僚は、”No”で答えられるのには数日を要した。 “you” は伊語でも “Lei” と “tu” があり親しみ程度で使い分けるが、動詞活用変化で人称が一つ増えて煩わしく思えるのは独・仏語も同じだ。

相づちは「ハイ」「エエ」が普通で「ウン」は家族か親しい友人に限っていたのだが、若いセールスマンが顧客で年長の私に何度も「ウン、それは—-」と言うのを初めて聞いて驚いたが、それはプリウス購入の1997年と記憶する。その後テレビでも「ウン」次第に増え、いまでは「ハイ」「エエ」は敬語の場合になっているように思える。

このような思い出からか、旧いと言われても言葉使いと相づちにはこだわりたくなる。

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10日本語の表記と発音 【言葉のはなし-10-】

小学校で最初にカタカナを次いでひらがなを教わった。3年生で、ずっと後に知ったことだが、父上が海軍士官で女子師範卒業数年の河田先生が担任となった。いまも94歳で大村にご健在で、2年前にお訪ねし68年ぶりに会えたのは感激だった。佐世保弁一色で育ち、標準語は国語の時間に先生からその発音と共に教わった。「わ行」の「わゐうゑを」は、昔それそれの違った発音で、いまでも地方によっては一部使い分けが残り、例として、絵は元々「ゑ」、井は「ゐ」だったと教わった記憶がある。「かきくけこ」では、関東はkwantoでkantoではなく同じ「か」でも発音の違いがある。「がぎぐげご」には鼻濁音nga濁音gaがあり東北地方では区別されていると習った。10年ほど前に関東育ちの友人に訊くと「自然にそれは使い分けられる」と言われた。でも当時の悪童どもには区別が困難で「標準語はホンナコテ(本当に)難しカバイ」だったがその印象は強く思い出す。

4年生で関西へ転校し、最初の算数の時間に教科書で「鉛筆が1本10銭で—」と読んだ途端に皆が一斉に笑った。何故笑われたかわからず中学2年の兄に訊くと「読んでみい」と言う。聞いた途端に「shenて読むケンガ笑うトサ」と言う。「ウンニャ(否)オイはちゃんとsenと発音シタト」。兄の返事は「話にならん、ラジオで違いを良く聞き分けろ」だった。数日必死に耳を澄ましてやっとshenとsenの違いがわかったが、発音を改めるのに一層の苦労が要った。「ホンナコテ(本当に)標準語の発音は難カシカバイ」。

東京に行ってすぐ、道を訊くと「その先のshiroi道を左折」と言う。コンクリの道だと探すが見あたらない。ふと「東京ではhiとshiの区別ができない」と聞いたのを思い出した。「hiroi(黒の)アスファルト道」だった。英語の授業ではheをsheとしか発音きない学生に英語では英文学では著名な教授がその発音の違いを四苦八苦説明されていた情景も思い出される。また、新潟出身の10歳上で士官学校卒の故人の同級生が、私を「Enoui君」と呼び「上野はUinoかUenoか考えるとわからなくなる」と言っていた。彼の頃までは方言が通常の会話語だっただろうし、士官学校ではさぞかし苦労したのだろうに。

留学途上3週間の氷川丸船上で、宣教師の子供に「を」の発音をwoと教えたら仲間が「いやoだ」と言う。同行の20人余りに訊くとwoは少数意見て驚いた。帰国後、知人に訊くとoが多く、oのつもりがwoと聞こえる九州の人もいた。

数年生活した米・伊の人たちからは「何故RとLの区別が付かないのか」と笑われたが、彼らには「リャ、リュ、リョ」がどうしても「リア、リウ、リオ」となるのを発見したときは、日頃の鬱憤晴らしとばかり「何故それが発音できないの」と快哉を叫んだ。東京をTokioと書く理由も理解できる。

会社の慰安旅行で日立沖のサバ一本釣りに行き面白いほど釣れたが、漁師さんが冗談混じりに「帰りの電車で、オチル人がシンデから乗ってくださいとアナウンスがあたら降りる人が済んでからの意味だから」と皆を笑わせた。翌日の電車でそれほどひどくはなかったがそのようにも聞こえ皆でクスクス笑った。

日本語の母音はいまでは5通りだが英語で母音の現実の発音は複雑怪奇だ。NJの地名Dunedinが日本語表記ではダニーデン、彼らの発音を良く訊くと絶妙にそれらしく聞こえるのも不思議だ。

blog     http://inoueyoshisuke.blog.so-net.ne.jp/  (2014/6/23)

 

 

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