小値賀島と紫電改」【この頃思うこと-54-】 [この頃思うこと] [編集]

新しく http://www.yoshinsukie.com/ を開設し論文・随筆・ブログなどを統合しようとしているので、ブログはこれでも続けますが、そちらも見てください。

 

「小値賀島と紫電改」【この頃思うこと-54-】

 昨年(2016)11月初め、予期せず半月入院する羽目となったが、例年の佐世保の高校・早稲田大学の同級会と会社での同僚との会は東京で、数年ぶりの旧制中学同級会は生まれ故郷佐世保でと、医者は心配気味だったが何とか予定通り楽しめた。その後、半年前より依頼を受けて今年1月16日予定だった鉄鋼協会の新日鐵と八幡製鐵での仕事に関する1時間半の講演の準備に追われたが、それも無事終え一息ついてこのブログを書いている。

佐世保では、84歳ともなると出席者は減って10名だったが、その一人梶野英州君にくっついてフェリーで2時間半の五島北端ながら五島には属しない小値賀島へ行ってきた。同島からは旧制佐世保中学に7名が下宿して学んだが梶野君以外6名は亡くなっている。同島訪問は、梶野君の従兄弟でもあり私の部屋で中高と5年を過ごし兄弟同様に育ち23歳で早世した鴛淵守雄君との思いでの地再訪と墓参りが目的だった。当時のことは本ブログでもアワビ採りのことなど書いたが、戦後すぐの食糧難の折には漁業や農作で人口も7千人あまりあった町が、いまは老齢化が進み4千人弱となり時代の推移を感じた。

表題の「紫電改」とは何?と思う人がいまは殆どだろう。爆弾・焼夷弾・機銃掃射で死ぬ目にあった戦中の事はあまり思い出したくないが、当時は陸軍の「零戦」とともに海軍の「紫電改」が優れた戦闘機だった。今回、梶野君から直木賞作家豊田穣著の「蒼空の器」の贈呈を受けた。その中の339頁に町役場にいた梶野君が案内したとあるが、小説の主人公で梶野君と守雄君の叔父である鴛淵孝少佐の名も同じ鴛淵家の墓碑に見られた。

帰路二つの理由からその本を夢中で読んだ。一つは、紫電改にまつわることで、主人公の鴛淵少佐は海軍兵学校出身の名パイロットだったが終戦直前に紫電改で戦死されたこと、その愛機は紫電改の翼の桁削り工場長だった父の井上新の工場で作られていただろうこと、それに鴛淵少佐が使用した航空地図は父の弟で数少ない生き残り将官だった秋吉利雄が関わっていたこと、という三つの偶然に読んでいて気付かされたからだ。

もう一つの理由は、私はかっての軍港佐世保で育ち叔父の影響もあって海兵には終戦までずっと憧れていた。この本にはその海兵での教育と生活とが一体として詳しく紹介されていて私がもう何歳か早く生まれていたらこのような生活だったろうと思ったからだ。そう言う生活にも魅力は感じるが、戦争中のことを思うと矢張りその後ずっと平和な時代を過ごせたことは何にも代えがたい有り難かった思いがする。